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2007年05月31日

急がれる対応 鵜.3

山形県の内水面行政に勤めている方々(県学芸員含め)は、公務員であり、とても研究者とは思えません。勤務時間でしか魚に対峙しない方々ばかりなのですから。

秋田県と宮城県、福島県で内水面行政に勤めている方々は、県学芸員含め、民間と協力して土日を利用してブラックバス駆除活動や各種シンポジュームを開催して、情報交換を頻繁に行っています。全国的な組織もありますが、山形県の内水面行政に務めている方は、誰も参加していません。秋田市で魚類学会が開催された時には、山形県の内水面行政に勤めている方は1名しか参加してませんでした。

NPO鶴岡淡水魚夢童の会の岡部夏雄氏は過去に二冊の本を出版し、県外の県内水面行政関係者や魚類研究者には知られた人物です。とある県の試験場にも岡部さんを知る研究者がおり、その方の所に山形県内水面試験場の方が研修に来られたそうですが、「岡部さんのことを知らないのでビックリしたよ」と言ってました。山形県の内水面行政に勤めている方が岡部さん宅を訪問することはありません。山形県の内水面行政の務めは水産業であり、水産業に関係無いザッコの生息環境調査や保護、環境保全活動は職務に含まれていないからです。とはいえ、郷土の本くらいは読んでほしいものです、岡部さんの本は献本もされているのですから。


2005年、赤川の鮭の簗場でスモールマウスバスが採捕されました。赤川水系には荒沢ダム、月山ダム、八久和川ダムがあり、既にブラックバスは生息していますが、冷水と流水への対応力が高いスモールマウスバスが下流で採捕されたことで、生息・繁殖している可能性がでてきました。それでも「被害届けが出されたら善処しますが、現状は、今後も山形県は生息調査を行わない」と公言しています。ちなみに秋田県と宮城県、福島県では対策を取っています。

その一方では、赤川漁協から精査にだされたスモールマウスバスの個体は「貴重な資料として保管したい」として、赤川漁協に返還されることもなく、内水面水産試験場で冷凍保存しています。でもまあ、これは許しましょう。でも(独)中央水産研究所(分かり易くいうと昔の水産省)には、スモールマウスバスの対策係りが設置されており、此処では全国各地のブラックバスやブルーギル、スモールマウスバスのDNAが調べられ、密放流の経由分布が判明しているそうですが、赤川で採捕された個体を中央水産研究所には資料提供してないんです。だから頭にくるんです。

問題の一つに、“敵のことを誰も知らない”ということがあります。仮にも山形県の淡水魚専門機関といえる内水面水産試験場がですよ、民間から精査依頼された個体を、「貴重な資料として保管したい」ということはおかしいでしょ。標本が欲しければ自分で調査して獲ってこいと言いたい。同時に、赤川漁協もスモールマウスバスを知らないなんて、滑稽です。

外来魚問題があるわけですから、チラシを配るだけではなく、ブラックバスやスモールマウスバス、ブルーギルやギギなどの標本を漁協等関係各所に配るとかの対応があって叱るべきです。今回の鵜のハミ跡なんて、良い例ですよ。淡水魚の調査には、釣り人の協力(情報提供)が欠かせません。絶滅危惧種であるウケクチウグイも同じです。釣り人も『ブラックバス』『スモールマウスバス』『ブルーギル』『ギギ』『鵜』『ウケクチウグイ』を、知っている気になっているだけなんです。これは行政の手落ちでしょ(1尾だけですが、ブラウントラウトも庄内で採捕されているんですよ。何処から来たんだー!)。駆除活動しなくても、外来魚に関心あるなら自ら調査しろよ。美味しい所だけ取るな。フィールドに出てこい。

鵜が定着したら終わりぞ。今度こそ起ちあがれ。動け、働け、山形県!
『全国でも成功例は少なく、駆除の成果は望めなかった』などと詭弁語って仕事サボるなよ!!

今度の鵜は、確実に水産業である鮎を直撃します。かといって鵜の有害駆除は、カラス以上に、思うようにはいきませんよ。カラスと鵜を食べる人はいないでしょうから関心が薄く、おまけに庄内の鵜の営巣地は、恐らく海の磯場でしょうから、卵のすり替え作業も効率よく上手くできるかどうか。既に被害が出ている関東以南の地方から対応策を教えてもらい、今年のシーズン中から行動を起こしてほしいものです。


オリジナル画像が探せず、小さい画像で恐縮ですが、2005年8月に鬼怒川で撮影した鵜の群れです。

一眼レフで撮影してCDに焼いたので、オリジナルは画像が大きかったので、羽数を数えることができました。556羽でした。これは最大級でも何でもなく、ごく普通に、このサイズの群れが幾つも飛行していくのです。

我々が今出来ることとしては、鵜の営巣地を見つけて県に報告することかと考えます。  

タグ :環境

Posted by さくら at 09:13Comments(0)その他07

2007年05月31日

急がれる対応 鵜.2

山形県の水産係(内水面の水産担当部署は、水産課から水産室となり、今は水産係です)と内水面水産試験場は、ブラックバス問題や在来種の生息環境調査・保全には一切関わりません。なぜなら「水産業に関係ないから」です。

ただし、「ブラックバス等、水産業に悪影響が報告され、被害届が出されれば、対処を検討します」と公言しています。その一方では「個人および管理者がいる民間の所有地に、県民の税金を使うことは出来ません」とも言いました(『緑税』とは正反対な主張ですね)。

では一体誰がブラックバス等による被害届を提出できるというのでしょう。民間の所有地以外となると、該当するのは行政の管理箇所になりますが、行政が其処で水産業を行っているわけはありませんから被害が生じることは有り得ません。敢えて存在するというのなら、米沢の内水面水産試験場と冬期間閉鎖する大江町古寺の孵化場、遊佐町のニジマスセンターくらいなもんです。要するに端から遣る気がないのです。

こんな山形県水産係と鶴岡市は、2006年12月25日に合同で、赤川漁協にもマスコミ各社にも通達することもなく内密で大山地区の溜池でブラックバス駆除行為を行いました。なにゆえ外部に内密で行ったのか。それは私のような口うるさい民間人を黙らせるためであり、行政は無関心ではないという対外的なポーズ造りのためです。一度でもブラックバス駆除行為を行えば、公文書に記録を残せますからね。

今回駆除活動した溜池には、数年前まで絶滅危惧種であるシナイモツゴが生息していました。ブラックバスの密放流が確認された初期の段階で県と鶴岡市には報告され「シナイモツゴ保護のためにブラックバスの駆除を行ってほしい」と陳情されたのですが、上記理由から駆除作業が行われることはありませんでした。ほどなくシナイモツゴは絶滅してしまいました。でも、民間からブラックバス駆除要請が有ったことは事実です。

『絶滅危惧種であるシナイモツゴの生息確認は、県の調査では確認できませんでしたが、ブラックバスは確認できましたので、民間の要望通り駆除行為を行い、要望に善処しました。』と報告されては、全てが真実であり、反論できません。(笑)

今回の駆除では40cmを越えるブラックバスも採捕され「こんなデカいのも獲れたよ」と笑顔だったと聞きます。鵜も、現状では民間から被害が報告されていない現状なので、被害が拡大して魚が釣れなくなってから対策を取るのかもしれません。『今日はアユが10尾も釣れたよ。鵜への対策が功を奏して、ツ抜けできました。という喜びの発言が聞かれた』と公文書に記録し、主旨と視点をまやかし成果を誇張するために。(^^;  
タグ :環境

Posted by さくら at 09:00Comments(0)その他07

2007年05月30日

急がれる対応 鵜

身欠きにしんさんが、鵜に襲われた岩魚を釣りました。私も他の川で今年3月に鵜に襲われた岩魚を釣っており、これは庄内の川の存亡が掛かる重大な問題です。

添付画像は2005年8月に鬼怒川で釣ったニジマスですが、夏休み期間なので、誰かがヤスで突いた跡かと思いました。『1本ヤスとはツウな奴だな』と感心していたら「これは鵜だよ。鵜から襲われた跡だよ。」と鮎梁のオヤジさんに教わり、ビックリしたものです。だって40cmはあるニジマスまでも鵜は襲うんですよ。

鵜は渡り鳥ではありません。その地域に棲み着いてしまう鳥です。つまり1年中居るわけです。このまま初期対策を誤れば、カラスがカラスを呼ぶように、鵜が鵜を呼んでしまい、庄内の川から魚が居なくなってしまいます。庄内地方では、最上川と相沢川の合流点や赤川で鵜が漁をするところを目撃されているそうです。山形県には迅速なる対応を求めたいのですが、これが動かないんだなあ、山形県は。(笑)

私は鬼怒川で鵜の実態をみてきましたが、恐ろしい数の群れが上空を往来し、人気無い淵や瀬を、信じられないくらい統制で追い込み漁を繰り広げていました。あれでは鮎も居なくなるわけです。私の主張は決して大袈裟なものではありません。関東以南の川鵜の被害をネット検索して調べて見て下さい。
  
タグ :環境

Posted by さくら at 14:42Comments(5)その他07

2007年05月29日

山形県メダカ情報センター

山形県メダカ情報センターという組織があります。山形城北高等学校の先生たちが立ち上げた組織で、「名称に‘山形県’とありますが、山形県は関係しているんですか?」と尋ねたら、「山形メダカ情報センターでも良かったのですが、‘山形県’メダカ情報センターとした方がカッコイイかと思って付けました。山形県は無関係です」とのことでした。

山形県メダカ情報センターが発足した当初、庄内地方のメダカ生息地の情報提供を求められ、生息地情報を伝えました。そして1年が経った頃、「山形県メダカ情報センターに集まった生息地情報をください」と申し出たところ「メダカは絶滅危惧種に指定されている貴重な魚なので、他の人には、生息情報を教えないことにしてあるので、駄目です。」と断られてしまいました。

情報の独り占めに憤慨しましたが、人としての問題でもあり、組織の方針ということで我慢しました。しかし、その後、天童市の佐藤酒店の佐藤政則氏とともに、メダカの密放流と譲渡を始めたことは、容認できません。これは由々しき問題です。

生息地情報はくれない、自分たちは勝手に密放流を繰り返す。この行為により本当に昔から生息していた自生地が判らなくなってしまいました。例えば、A池のメダカが絶滅した。幸いにも近所の方がA池のメダカを飼育しており、再びA池に放流しようとしたら、メダカが泳いでいた。果たしてこのメダカはA池の生き残りなのか、否か。どっちにしろ、近所の方が育てていたA池のメダカは、放流できなくなってしまった分けです。つまり、山形県メダカ情報センターと佐藤氏によって、山形県のメダカは壊滅状態となったのです。

しかもメダカは1種類しかいないというのに、宇宙メダカは許すとしても、青メダカ、白メダカ、ピンクメダカだと勝手に分類して「メダカは現在30-40種類います」等と言うに至っては、閉口するしかありません。公に活動されるなら、周囲に与えてしまう影響にも配慮して、もっと環境保全について勉強してから行動を起こすべきです。

何も知らない一般の大人は、学校の先生や懸命に活動されている佐藤氏の主張を、鵜呑みにしてしまうことでしょう。親が鵜呑みにしてしまうと、親を信じて子供まで鵜呑みにしてしまいます。自然を憂う気持ちがある大人は、子供のためにも真実を見極めてほしいと願うばかりです。


佐藤氏はインターネット上で、下記のように発言しています。
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皆さんはメダカを見つけたことがありますか? 昔、どこでも見られた小川に泳ぐメダカ。 今は在来種の日本メダカは壊滅状態なんです。 泳いでいるのはほとんどメダカじゃなくて小魚です。 まだ残っている在来種を県内で探し、17匹より始めた メダカを沢山増やして、小川いっぱいにメダカを蘇らせようと 夢を追っている私です。
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何を持って『壊滅状態』と言えるのか、何処を調査して『泳いでいるのはほとんどメダカじゃなくて小魚です』と言えるのか。メダカを沢山増やして密放流を繰り返すことが、本当の解決策でしょうか。なぜメダカが壊滅状態なのか、その原因を探ることが大切ではないでしょうか。そういうことが解らないから、判ってない人たちが家根合地区のような保全池を造ってしまうのです。

メダカに限らず、生き物をシンボル(出汁)に使って活動しては、いけないのです。  
タグ :メダカ

Posted by さくら at 07:45Comments(0)その他07

2007年05月28日

余目町家根合メダカ保全池

余目町の家根合地区は、以前は庄内地方最後の素堀の用水路地帯として、メダカなど多くの魚種がたくさん生息していました。しかし、ほ場整備事業に因り素堀の用水路が無くなる事になり、それを機に‘保全池’を造る計画が持ち上がりました。最初に落合地区にメダカ保全池が出来ると、家根合地区の人は、『落合地区に負けない、立派なメダカ保全池を造れ!』と言い出しました。

メダカの生息環境に石積みは要らないと進言されても取り合わず、ゴネてゴネて事業に影響するまでゴネ続けました。そうして出来上がったのが、今の家根合メダカ保全池です。『落合地区に負けたくない』一心で、メダカを出汁に利用して、菩提寺に似合う日本庭園を造ったのです。Googleで『家根合 保全池』と検索してみてください。事業計画はメダカ保全池ではないのです。「生態系保全型水田整備推進事業」「生態系保全池」なんです。




家根合地区が庄内地方最後の素堀の用水路地帯として、なにゆえ「生態系保全型水田整備推進事業」が設けられたかと言えば、素堀の用水路(田んぼ)が育む生態系の多様さがあったからです。今の田んぼの用水路は、水道と同じで配管が敷設され、バルブを開いて田んぼに水を入れます。用水路は三面コンクリート張り。川から水を引き込むと、各ポンプ場(揚水機場と排水機場)を経由して水を回し、最後は川へ放水されます。そのため、昔のように魚が用水路に棲むことができなくなっています。でも家根合地区には、その環境が残っていた。だから「生態系保全型水田整備推進事業」が起きたのです。

当初は、水と一緒に用水路に入り込んだ魚を全て保全池に集め、育み、自由に出ていけるような「生態系保全池」を造る計画でした。




ところが家根合地区は、サイフォン効果を利用して一部の水だけを取り込み、水路と池の高低差を利用して、あたかも噴水の如く取水方法を取りました。これでは保全池に魚が入って来られません。排水方法も同じサイフォン式にしてしまい、魚が池の外に出ることは出来ません。このように魚の生態系を全く無視した構造を採用し、日本庭園を造っしまったのです。






最上川は大きな川です。大きな川は、小さな魚の稚魚が棲むに適した場所ではありません。素堀の用水路は小さな魚の稚魚が棲むに適した場所でした。それを補い育む計画が「生態系保全池」でした。しかし、「生態系保全池」に稚魚は入ることが出来ず、入ったとしても出ることが出来ないのです。メダカを自然保護のシンボルに祭り上げた結果、家根合地区全部の魚を見殺しにしてしまっているのです。

生き物を慈しみ、何か遣ってやろうという気持ちは大切ですが、本質を捉えていないと、なんの役にも立ちません。また、物事の表面だけ捉えて闇雲に褒めるのも止めましょう。

物事を悪くいう言動は、今の日本社会では蔑むべき悪い行為でしょうけど、なんでも褒めるだけも良くないと思います。なにより子供の将来が不安です。駄目なものは駄目なんです。敢えて書かせてもらいました。こういう誤った見解を是正できたらよいのですが、時間が掛かるでしょうね。

みなさんは、童謡『春の小川』や『めだかの学校』をご存じですか?
メダカは池や沼の魚ではありません。流れのある場所に生息しています。昔の人は、チキンとした見識を持ってたんですね。  

タグ :メダカ

Posted by さくら at 17:06Comments(2)その他07

2007年05月25日

Google検索『日本桜草 蔵王』

山形県で唯一自生地が残っていることになっている蔵王の日本桜草。
何も知らないので、『日本桜草 蔵王』で検索してみた。
結果、蔵王の自生地は判りませんでした。
やはり蔵王も‘昔は自生していた’だけなのでしょうか。

山形県内には流通していませんし一度も見たことがない
関東以南で広く認知されている日本サクラソウの野生品種『やまがた』。
これって、山形県の野生品種という意味での品種名『やまがた』だと推測するのですが
山形県人が知らない。
山形県で見た事がない。
山形県の野生種なのに自生地が判明できない。
そんな野生品種って、存在するのでしょうか?

まるで中国が、日本の地名を勝手に商標登録してしまい、
日本が知らぬ間に、中国で主流になってしまっている昨今の商標登録侵害のように
山形県人である私には、見て取れるのですが、野生品種『やまがた』って何ですか?
山形蔵王に自生地は存在するのですか?

蔵王山麓にある少年自然の家付近で撮影したそうですが、白は明かな園芸種。
http://kamosika.web.infoseek.co.jp/hana/hana002.htm

  

Posted by さくら at 09:20Comments(0)日本桜草07

2007年05月22日

NPO鶴岡淡水魚夢童の会 岡部夏雄氏

5月21日、NPO鶴岡淡水魚夢童(ゆめわらべ)の会の岡部夏雄氏とお逢いしてきた。2007/05/10にアップした野中地区のめだかの学校を訪れた時、相手をしてくれた女性が「夢童の会が、どうのこうの、云々」と言っていたので、尋ねてみたら、「日本桜草を寄贈したのは、鶴岡自然調査会の水野重紀氏である」と教えてもらった。

そして岡部夏雄氏より4月14日に庄内日報に掲載された『絶滅危惧種 サクラソウ復活へ 南庄内水と緑の環ネットワーク「親株」の情報求める』記事を教えられた。他に山形新聞にも載ったらしい。

最初に断って措きますが、私は上記新聞記事活動と思想に一切関与していません。メダカやホタルのように、日本桜草を自然保護運動のシンボルとして利用するつもりは毛頭ありませんし心外です。

日本桜草が庄内に自生していたのか否か=在来種なのか移入種なのかを知りたいだけでした。庄内に日本桜草が自生していたことを知った今は、日本桜草を栽培している人でも日本桜草と知らずに栽培している人やプリムラやマラコイデス、クリンソウを桜草と思い込んでいる人も少なくないので、知らせて歩きたいとは考えていますよ。でも、それを自然界に移植しようという思想はありません。

日本桜草の花は散り、これからは葉っぱばかりになるので、調度良い機会です。これからは生態系や環境保全への想いも語ってみたいと思います。


閑話休題
岡部夏雄氏から、「今ある青龍寺川の流れは、河川改修された人工流程だよ」と教えられた。記憶が定かではないが、と前置きされた上で、「中橋地区を流れていたのは、とのじま川という名前だったと思うが、今は無い」そうです。

これで合点がいきました。2007/05/10にアップした余目町の記事の中で、「私、下山添の出身だ」と語ってくれた方が、「今はもう無くなった川だけども」と言ったんです。私はてっきり用水路のことだと思っていたのですが、とのじま川のことだったんですね。川が在ったとは知りませんでした。

安野悌次先生は「青龍寺川の郷土誌には、日本桜草のことは何も書かれていないので、ビックリしました。」と話してくれたことがあり、私の調査に無関係だと思い込んでしまってましたが、位置関係を知るためにも、勉強するべきですね。反省。


また、昭和13年3月1日に発刊された『山形縣の淡水魚(1938)』橋本賢助著を見せて貰いました。私は、日本桜草が生息していた河川環境は、イバラトミヨやホトケドジョウ、シマドジョウ、スナヤツメの生息環境と同じと感じており、そういう意味で『山形縣の淡水魚(1938)』は参考になりました。イバラトミヨの生息地に余目町も含まれていました。


  

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Posted by さくら at 07:25Comments(2)日本桜草07

2007年05月22日

八幡町貝沢地区と升田地区

5月21日、日向川上流八幡町貝沢地区と升田地区で、日本桜草のことを尋ねてみたが、知らないとのこと。クリンソウだけはあった。プリムラ・マラコイデス(メラコイデス/西洋サクラソウ/和名オトメサクラ(乙女桜)、ケショウサクラ(化粧桜) )は此処にもあり「これが桜草でしょ?」と言われた。

升田地区金四郎商店には昔からお世話になっており、日向川沿いに日本桜草は自生していなかったと思うのですが、否定する材料もなく・・・。  

Posted by さくら at 07:21Comments(0)日本桜草07

2007年05月19日

立川町東興野 自生地探訪

5月18日、立川野草愛好会主催の山野草展を見に行ってきた。午後に行ったら既に撤収作業中で、盆栽を軽トラックに積んでいる処だった。荷台には日本桜草も数鉢積まれていたが、園芸種ばかりだった。

どんな園芸種が庄内に在るのかを知るべく、軽い気持ちで訪れたのだが、今まで見たことがない園芸種があった。藤島町の阿部月山子さんと関係が在るのかもしれないと考え、取り合えず、「これは園芸種だよの?」「どうやって入手したな?」と尋ねてみると、「‘コレ’は、園芸種だ」「こんなは某Aさんから貰ったな」という返答だったが、‘コレ’という言い方が気になった。

「コレは園芸種ということは、他にもあんなが?」と尋ねると、撤収作業で多忙なこともあり、某Aさん宅へ行くよう勧められる。某Aさん宅にいくと、数鉢の日本桜草があったが、「全部園芸種で、昔、珍しいのを通信販売で仕入れたんだ」とのこと。そして「荒鍋地区の大滝婆さんが、東興野地区から採ってきた天然を持っているはずだ」と驚きの情報をくれた。これは行くしかない。

と、そこに偶然大滝婆さんが登場。ラッキー。さらにこの大滝婆さん、「東興野地区から採ってきた日本桜草見っでってか? よし、行ぐが。」と言うが早いか、さっさと自転車に乗って自宅へ向かいだした。慌てて車に乗って後ろを付いていく。今年で88歳だという大滝婆さん、行動も決断も早いが、自転車も速かった。

大滝婆さんの庭の隅の木陰に、隠れるようにピンクの日本桜草が咲いていた。「これは20年以上前、知人に誘われ何かを採りに東興野地区に行き、偶然みつけたな」だそうだ。






裏庭には立川野草愛好会の頒布会で購入したという白の日本桜草も植えられていた。今まで出逢った方々と違い、他の植物の葉に覆われて、葉を掻き分けないと判らない場所に育っており、新鮮だった。日本桜草って、本来こんな風に自生していたのかしら。ドキドキした。




「東興野地区のどの辺?」と尋ねると「その時に1度行ったきりだし、その時にやっと1株みつけだけなので、もう無いと思うぞ。んだども行てみっが。んだば行くが。」ということになり、私の車で行ってみることにした。「山の奥の、フキの葉っぱの影に咲いてたんだ」「あの辺だがもしんね。」「んね。此処でね。隣の山だがも知んね」とアクティブに動き回り案内してくる大滝婆さんは、88歳である。

大滝婆さんは「山の中で見だんだ」「そんげ高くない場所で、比較的平坦な場所があり、そこで見だ」と言って山の上に登ろうとするが、日本桜草はそんな場所にはない。谷筋だろうと思い、歩いていく。元もと東興野地区から添津地区は自生の可能性があると考えていた地域の一つであった。添津地区にはゴルフ場が出来たが、ゴルフ場が出来たということは、比較的平坦な山であり、添津地区には二枚貝が生息している。清川地区は湧き水がコンコンと湧いていた地区だから清い川、清川となったと聞いたことがある。東興野地区から添津地区の山間には葦原が残っており、沢というか、染み出した水が葦原を形成しているのだ。

「此処でね。隣の山だがも知んね」と言った隣りの山の麓に、フキが生えている小さな谷間があった。つい最近までシイタケ栽培をしていたのだろう、ホダ木が朽ちて、フキやミズに覆われていた。「こげた感じの平たい所だったから、此処だがもしんね」「美味そうなミズだごど」と言いながら大滝婆さんがミズとフキ採りを始めた。

象潟の三船さんは「杉林の中に竹林があり、そこに咲いていた」と男鹿半島にある日本桜草の自生地を話してくれた。此処も杉林に覆われた谷間である。フカフカする平たい台地を奥へ進むと、一段低い処に僅かな沢筋があり水が流れていた。水は、扇状地の平たい台地の下を伏流しているのだった。




ミズとフキ採りをしている大滝婆さんが「此処だのー」と言った。此処の日本桜草はシイタケ栽培に利用され絶滅したであろう。しかし、20年前までは自生していたんだと思うと、感慨深い想いが込み上げてきた。“日本桜草は庄内平野一帯に咲いていた。”そんな思いに囚われてきた。来年のGWは、フィールドワークになりそうです。(^^)  


Posted by さくら at 05:54Comments(0)日本桜草07

2007年05月19日

櫛引町丸岡地区

5月18日、一番最初に訪れた時にピンクの日本桜草を見せてくれた、安野悌次先生宅へ白い日本桜草を届ける際に立ち寄った方に、#1のプランターの白い日本桜草を置いてきた。

此処まできたので、安野悌次先生宅を訪問。私が持っていった白い日本桜草はプランターのままだったが、水遣りが足りないようで、葉がしおれていた。中田地区には、安野悌次先生以外にも、1軒だけ白い日本桜草を栽培している家があるそうで、先日先生が見に行ったところ、「1輪だけ咲いていたが園芸種のようだった」「息子さんが群馬から持ってきたようですの」とのこと。  

Posted by さくら at 05:42Comments(0)日本桜草07

2007年05月17日

酒田市本楯.3

土門爺さんを自宅へ届け、帰路につく。小野寺商店さんの家の前を通り過ぎた時、杉山先生のことを尋ねてみようと思い立ち、Uターン。と、その時ピンクの日本桜草を発見。でも此処は小野寺商店さんの近所である。杉山先生か小野寺商店さんに分けてもらったのだろ。そのまま通過。と、その時、今度は白の日本桜草発見!!

もう目の前は小野寺商店さんである。今朝見つけたお宅〜土門爺さん宅〜小野寺商店さん(杉山先生宅)〜今見つけた白い日本桜草のお宅〜ピンクの日本桜草のお宅まで、全部で500mも離れていない。今朝見つけたお宅〜土門爺さん宅なんて、ほとんど隣り同士。小野寺商店さん〜今見つけた白い日本桜草のお宅〜ピンクの日本桜草のお宅だって、100mほどしか離れていない。なんで直ぐに見つけられなかったのか、不思議である。

今見つけた白い日本桜草のお宅を訪問すると、ピンクも白も、酒田市刈屋地区の方から貰ったという。ほんの僅かではあるが、遊佐町に近づいた。これは遊佐町産の白なのだろうか。(^^;




小野寺商店さんで缶コーヒータイム。杉山アイコ先生は85-86歳。脳卒中で長期入院中。「訪問しても何も話せないよ(行くの止めなさい)」と言われる。安野悌次先生は90歳と5ケ月。安野先生と旧制中学校の同級生である故菅原デンスケ先生といい、私の調査がもっと早ければ、自生地について詳しく知ることができたでしょうに、なんとも残念です。  


Posted by さくら at 08:41Comments(0)日本桜草07

2007年05月17日

酒田市本楯.2

土門爺さんをピックアップして日向川上流へ向かう。山菜採りの背負子まで持ってきている土門爺さんは「日本桜草はわからねんども、云々」と何度も言う。私が過大な期待を持って現地へ向かっているのではないかと気にされているようだ。こっちこそ、突然誘い出して申し訳ない。

急な林道を登って山へ入っていく。この段階で日本桜草は無いと確信した。林道の行き止まりには小さな沢筋があり、ミズバショが生えていた。白い花が辛うじて残っている程度で、もう終わっている。土門爺さんは、陽当たりの良い斜面をきょろきょろ見渡しているが、そういう箇所に日本桜草はない。

花も見つからず、このまま直ぐに帰るのは土門爺さんに申し分けないので、ちょっと山菜採りをする。昔のホームゲレンデにやってきた土門爺さんの目が冴え、タケノコとアイコ、ウドと次々見つける。小1時間で十分な量な採れた。

途中、斜面に白い花を見つける。土門爺さんは、これを勘違いしていたそうです。楽しいドライブでした。(^^)


  


Posted by さくら at 08:16Comments(0)日本桜草07

2007年05月17日

酒田市本楯.1

魚の調査でも植物の調査でも、生息している証明は簡単ですが、生息していない証明は難しいです。採捕・採取すれば生息の証明は出来ますが、採捕・採取できなかっただけで『生息はしていない』とは断定できないからです。昨日本楯地区では、改めて認識させられました。


土門時計店の爺さんが、『日向川上流で何の花か判らないけど、ピンクや白の花を見た』と話してくれたので、昨日、土門爺さんを誘って日向川上流へ行ってみることにした。本楯地区へ入り、土門爺さんの直ぐお隣りさん宅の路地に、白とピンクの花が見えた。色合いから日本桜草だ。本楯地区には脳卒中で長期入院中の杉山アイコ先生がピンクの日本桜草を持ち込んでいるが、白は無いはずだ。

訪ねてみると、裏庭でご夫婦で庭いじりの最中だった。「日本桜草のことお伺いしたいのですが・・・」と話しかけても、「わがんね〜。わがんね〜」と、警戒と面倒臭さから裏庭から出て来てくれない。私も勇気を振り絞って厚かましさを乗り越え訪問しているのであって、これで退いてしまっては、再び訪問する勇気が湧いてこなくなる。喰い下がった。

その甲斐があり、ご夫婦して近づいて話しができるようになった。私の熱意が通じたものとポイジティブに捉える。日本桜草は奥さんが栽培していた。

「ピンクは昔からあった。こんだな何処さでも在んなんねな。」と言うので「そんなことはありません、云々」と返していると、思い出したらしく「白はの、何年か前、随分昔に駅東の方から分けてもらったんだ」と話してくれた。駅東なら、クリンソウと勘違いしならも日本桜草を栽培している方がいる旭新町の隣りである。

その他、日本桜草のことを色々と話した。『ピンクは昔からあった。こんだな何処さでも在んなんねな。』という言葉が気になり、遊佐町からの移植かもしれないと思った私は、遊佐町サクラソウの会のことも話した。すると今まで聞き役だったご主人が、「遊佐の菅原なにさんだって?」と反応した。「菅原ツネオさんと菅原デンスケさんです」というと、「んだ、んだ。デンスケさんの。デンスケさんは本楯小学校の校長先生だったんだよ」とのことだった。小野寺商店さんも土門爺さんも、そんなこと一言も言ってなかった。


  


Posted by さくら at 08:03Comments(0)日本桜草07

2007年05月15日

酒田市本町

5月14日、先日見つけたお宅を訪ねてみた。平成14年に某接骨院から分けてもらった株だという。色々話しをさせてもらい、余目町の話しをしたら「あら、某接骨院さんも余目出身だから、余目産かもしれない」とのことでした。

白は、「去年はプランター一杯に咲いたんだけど、今年はこれしか咲かない」と言ってました




ピンクの日本桜草のプランターの下記画像の花を良く見て下さい。
画面中央の花と、右側と左側の花、違うでしょ。
画面中央の花は、花びらの縁が白く縁取りされ、花びらも太いです。
3品種あることを伝えたら驚いていました。


  


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2007年05月15日

秋田県象潟町

5月14日、象潟町へ行くと、三軒ほどで、ピンクの日本桜草が目に付いた。一軒目はお留守で、二軒目の三船さん宅を訪ねてみた。話し好きな方で、色々話しを聞けました。

庭には色々な園芸種が咲いていました。日本桜草の自生地を探している旨を伝えると「男鹿半島にあるけど、採っちゃ駄目よ。遠くから双眼鏡で監視しているから。」と教えてくれました。

なんでも、TDKに園芸愛好家の集まりがあり、月に一回秋田県内の野山を散策したり、年に数回、手持ちの苗や株、種の頒布会を行っており、それで日本桜草を入手しているそうです。私は遊佐町との交流を期待したのですが、それはないそうです。




  


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2007年05月14日

降矢川 三瀬

5月13日、矢引峠?を越えて降矢川沿いに三瀬に向かっていると、ピンクの日本桜草を見つけた。数輪の小さな鉢だった。止まろうかどうしようか悩んでいると、新たにピンクの日本桜草のプランターが目に止まった。今日で三日連続。三度目の正直、訪ねてみることにした。


初老のお婆さんが出てきてくれた。「誰から貰ったかは分からないけど、日本桜草なら、みんな分けあっているから、三瀬でなら何処にでもある。」とのこと。

すると「白もあんなやの。」と言う。庭に出て白も見せてもらう。確かに庄内在来の白である。この白は去年もらったのだという。三瀬では『何処にでもある』けど、「白は少ね」そうです。

庄内在来の日本桜草の話しを色々話し、安野悌次先生のことを話すと、「安野先生の。わがるよ。」と言ったので驚いた。このおばさん、櫛引町出身なんだそうです(集落未確認)。でも「櫛引で日本桜草はみたことないのー。」とのこと。




色々と日本桜草の話しをしていたら、「お向かいにも分けてあげたんだよ」と言った。でもお向かいには日本桜草はない。どれを桜草と言っているのかと思ったら、プリムラのマラコイデス(メラコイデス)であった。

「これは日本桜草じゃないです」と言うと、「こんな桜草だよ。んでねなが!?」と大変驚いました。「こんな、種で増えでんだろ?」「んだ、これは種でいっぺ増える。」ということで、日本桜草ではありません。

園芸店やホームセンターなどで、プリムラを西洋桜草と称して販売したので、これも西洋桜草と称したか、俗称ケショウザクラ、オトメザクラとも呼ばれているそうですから‘桜草’と思い込んでいたのでしょう。

強風の中を外で長いこと話し込んでいたので、おばさんが寒そうで、これ以上の話しは出来ませんでした。降矢川〜三瀬には、これ以外にもありそうですね。  


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2007年05月13日

酒田市緑ヶ丘2丁目

5月12日、玄関先にピンクの日本桜草を発見。今回も素通り。でも、その時に此処が酒田市緑ヶ丘2丁目であることに気付きました。故斎藤教頭先生の家が在る町内です。にわかに気持ちが高ぶってきました。

直ぐに別の場所で白い日本桜草を発見。でも、一緒に咲いているのは在来種のピンクとは違う色合いですし、白い日本桜草も妙に白い。花弁が白いんです、つまり園芸種。

そういえば誰かさんは「緑ヶ丘2丁目にある園芸店から日本桜草を購入した」と言ってたような。取り合えず写真を1枚。




帰宅して、写真をみていたら、白が3種類、ピンクが1種類、合計4種類の寄せ植えのようです。




2010年、この日本桜草は故斎藤教頭先生から譲渡されたモノと知りました。
  


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2007年05月12日

遊佐町十里塚

道路沿いの家に、ピンクの日本桜草の鉢植えがありました。『オッ』と思い目線をそっちへ向けたら、隣りの家にもありました。遊佐町でピンクの場合は遊佐町立図書館が譲渡先でしょうから、昨日同様立ち寄らずに通過しました。今期の調査は終了という思いがあり、モチベーションが低下したようです。

でもね、実際、日本桜草も持たずに、唐突に他人の家を訪問するのは、結構辛いんですよ。(^^;  

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2007年05月11日

つながった!?.2

本楯地区の小野寺商店さんへ行くと「日本桜草の兄ちゃんがきた(^^)」と迎えてくれた。譲渡した白い日本桜草は綺麗に咲いており、喜ばれた。






「日本桜草は、やはり庄内に自生していたことが解りました。櫛引町中田地区に、元教育長も勤められたという安野悌次先生が居られて、この方は90歳と5ケ月ということですが、元気でかくしゃくとされた方で、庭で日本桜草を育ててまして、云々」と話していたら、小野寺商店のおばちゃんが唐突に話し始めました。

「杉山先生も85・・・う〜ん、80歳を越えて今はずっと入院してるけど、この先生はの、若竹町の結城先生から譲てもらての、庭で大事に育でてだんどもの、入院してしまての、今は誰も住んでねぐで、日本桜草は消えてしまたなやのー。」と、貴重な話しを聞かせてくれました。

「杉山先生って、此処さ日本桜草を譲ってくれた、向かいの先生のごどが?」「んだ。結城先生はウチの親戚での、もう亡くなって、息子さんは東京さ住んでで、若竹町さは別の人が住んでんながいの」とのこと。酒田市若竹町といえば、私に日本桜草をくれた故佐藤教頭先生と同じ町内じゃないですか!?

酒田市若竹町に住んでいた故斎藤教頭先生。
御成町に住んでいた故小林先生。
本楯地区に住んでいた現在長期入院中の杉山先生。
そして今回第四の先生として浮上した故結城先生。

故佐藤教頭先生と故結城先生は同じ町内。
杉山先生は故結城先生から日本桜草を譲渡された。

つながったかな。(^^;

白い日本桜草が咲いている今のウチに、逢えるものなら現在長期入院中の杉山先生をお伺いしたいものです。  


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2007年05月11日

つながった!?.1

以前、川で出逢った漁協のオヤジさんから、『八幡町市条の小笠原時計店の小笠原さんとの遊び仲間で、本楯地区に植木に詳しい方がいる』と教えてもらったことを思い出した。本楯地区で植木鉢が多い家は記憶にあったのだが、そこは土田時計店だった。お邪魔してみる。

「日本桜草って、草なんだろ?」「おれは木だば詳しんども、草だば判んねの。」とのこと。「小笠原さんが『日本桜草なら裏山にいっぺ咲いでる』と言ったもんだからの、訪ねてきたんだ。」と言うと、「おれは(名前が)判らないけど、可憐な花なら見たことがある。ピンクとか白とか、午前中陽が当たり、午後になると日陰になる場所に咲いてるんだ。毎年んだの〜、今頃咲くんだ。」「日向川の上流さ行てみれ。」と、オヤジさんが情報をくれた。

『日向川の上流』といえば、本楯地区の高橋さんが「採ってきた」と話していた場所である。偶然の一致だろうか。このままオヤジさんと日向川へ向かえば問題は一気に解決する。でも流石に今日はそれは出来ない。

『日向川の上流』に玉簾の滝で有名になった升田地区がある。そこに斉藤金四郎商店さんがあり、以前からよくお世話になってきた。もちろん日本桜草の相談もしているが、「知らない」と言われた。八幡町観音寺地区は園芸が盛んだし、園芸種の日本桜草が少しあった。色々と、来年以降の課題だな。  

Posted by さくら at 07:47Comments(0)日本桜草07