2007年04月17日
仮説:媒体は先生
庄内の日本桜草は、小学校や中学校の先生達を媒体に鶴岡市から酒田市へ広まったと私は考えています。昭和30-40年代、酒田と鶴岡を行き来する人は今ほど多くはなかったはずです。その中で移動できた人物・職業は転勤がともなう小学校と中学校の先生達です。
櫛引町丸岡地域に自生していた日本桜草は、鶴岡市(田川地区)の人たちにとっては単なる野草でしかなく、身近すぎて園芸の対象として考えていなかったと推察します。でも酒田市(飽海郡)の人たちにとっては珍しい花です。中でも白は珍しいので、白を採取して持ち帰った。
その後昭和40年代初頭に田んぼの基盤整備で自生地は消滅。鶴岡市にはピンクだけが残った。一方酒田市では、当初から「これは珍しい花なんだよ」と言われながら人手に広がっていき、大切に育てられてきた。だから酒田市に白い日本桜草が残ったのではないでしょうか。
ひょっとしたら、田んぼの基盤整備で自生地が消滅したことを先生たちは知っており、ゆえに「今はもうなくなった、貴重な花なんだよ」と言っていたのかもしれないですよね。
櫛引町丸岡地域に自生していた日本桜草は、鶴岡市(田川地区)の人たちにとっては単なる野草でしかなく、身近すぎて園芸の対象として考えていなかったと推察します。でも酒田市(飽海郡)の人たちにとっては珍しい花です。中でも白は珍しいので、白を採取して持ち帰った。
その後昭和40年代初頭に田んぼの基盤整備で自生地は消滅。鶴岡市にはピンクだけが残った。一方酒田市では、当初から「これは珍しい花なんだよ」と言われながら人手に広がっていき、大切に育てられてきた。だから酒田市に白い日本桜草が残ったのではないでしょうか。
ひょっとしたら、田んぼの基盤整備で自生地が消滅したことを先生たちは知っており、ゆえに「今はもうなくなった、貴重な花なんだよ」と言っていたのかもしれないですよね。
Posted by さくら at 08:59│Comments(0)
│日本桜草07