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2012年03月03日

孫半土鉢.6

孫半土鉢とは、この雑な作りの甕は、もともと何のために焼かれたのでしょう。

農業世界 昭和15(1940)年11月号付録
 何でも古老の語るところによりますと、昔焼物を製る時に、この中に入れて焼いたものださうで、元々鉢として製ったものではないらしいのです。従つて底には孔(あな)があいてをりませんから、日本櫻草の栽培にこれを用ひます場合には、鑿(のみ)の如きもので底に水抜き用の小孔を穿つてから使つたものです。


加藤亮太郎著『日本桜草』加島書店(昭和34(1959)年5月)
 この鉢は、実は植物を植える為めに作ったっものではなく、貴重な陶磁器類を焼く時の外枠として用いたものだそうです。
 したがって、底には他の鉢に見られるような水抜穴がありません。
 そこで、鉢として用いる場合には、中央に穴をあけて用いたものです。

鈴鹿冬三著『日本サクラソウ』NHK出版(昭和51(1976)年5月)
 このものにのみ利用された面白い鉢があり、今日に伝わってきたのが、この孫半土です。(中略)。
 この鉢は、実は植木鉢ではなく、貴重な陶磁器類を焼く時の外枠「さや」として用いたものといわれています。武士の家などでは、これを味噌壺や梅干し壺に利用したとも言われています。
 したがって底には水抜き穴がありません。鉢として利用する場合には、中央に穴を開けて用いたものです。

鳥居恒夫著『色分け花図鑑 桜草』2006(平成18)年
 江戸時代中期(中略)、量産の植木鉢が無く、そこで台所で塩や味噌を入れていた小鉢を集めてきて、底に水はけの穴をあけ、桜草を植えた。(中略)、日用品として大量に江戸の町でも使われた。(中略)、植木鉢に活用して、いろいろな草木が植えられていた。

世界のプリムラ』 2007(平成19)年 桜草鉢について 伊丹執筆 
 何処の家の台所にもある瀬戸物の小さな壷、塩入れか何かに使われていた蓋のない壷に目をつけた人は、コツコツと底に穴をあけ、「これでいけるッ」とつぶやいたに違いない。瀬戸物屋に頼んでおけば、安価でいくらでも手に入った。




『農業世界』と『日本桜草』では、陶磁器類を焼く時の外枠と紹介。
『日本サクラソウ』でも、陶磁器類を焼く時の外枠「さや」と紹介。
さらに、武士の家などでは、これを味噌壺や梅干し壺に利用したとも言われています。と書いています。

それなのに、鳥居恒夫氏と伊丹淸は、
・台所で塩や味噌を入れていた小鉢を集めてきた。
・日用品として大量に江戸の町でも使われていた。
・何処の家の台所にもある瀬戸物の小さな壷、何かに使われていた蓋のない壷。
・瀬戸物屋に頼んでおけば、安価でいくらでも手に入った。
と記しています。

何度も書いていますが、鳥居氏が『色分け花図鑑 桜草』の中で
先達たちにないことを断言している箇所は鵜呑みにしてはいけないので、ウソだと疑うことです。
なので先に、鳥居氏が書いていないけど先達たちが書いている
陶磁器類を焼く時の外枠「さや」とはなんぞや? という処をネット検索。

でました、直ぐにヒット。

匣SAYAから発信・やきものの話 ~桃山陶~
2010年12月10日 – 匣」ってなあに?: http://yokohama-now.jp/home/?p=2576
「匣」、又は「匣鉢」と書いて、焼物業界では「さや」と読んで、やきものを焼成する時に使用するある道具を指します。「匣」は通常辞書などでは、「こう」とか「はこ」という読みがなでしか出てきませんので、「さや」という読みかなは、この焼物の世界だけの当て字という事になります。

『ウィキペディア(Wikipedia)』匣鉢
鎌倉時代の藤四郎は南中国の匣鉢を瀬戸に伝えたらしい。

Blog『備前焼 やきもん屋』 匣鉢 2009-01-28
『匣鉢=はこ・はち』と書いて『サヤ』と読む。他の窯業地では『エンゴロ』とも言う。焼成時に素地を保護する『箱』の事。



孫半土鉢という甕が、何のために焼かれたのか、答えは出ましたね。匣鉢だったんですね。

塩や味噌、梅干しを入れた家もあたったでしょうけど、不自然なことが多いと思ってました。
味噌、梅干しを入れるなら、もっと大きいと思います。
日用品として大量に江戸の町でも使われ、何処の家の台所にもあると言うわりには
時代劇にでてこないし、蓋が無いのか不自然。
蓋が無い壺が、日用品として大量に江戸の町に入るだろうか。
ニーズがあるなら、甕は細分化され、お洒落な形と色彩となり蓋付きも誕生したのではないのか。
瀬戸物屋に頼んでおけば、安価でいくらでも手に入った品が、なぜ消えた?
日用雑記なら骨董として伝わっていそうなのに、それもない。

鳥居氏と伊丹氏はさくらそう会は、此処でも巧みな言葉を使っていたんですね。
公的施設の広報には、それを信じた文言が載っていますけど
『本来食器容器として作られた瀬戸焼の陶器』は、過ちになります。



鳥居恒夫氏が世話人代表を努めますさくらそう会の活動は、
さくらそう界に多大な迷惑をかけ、世間と愛好者に誤った認識を広めてしまったようです。
鳥居氏と伊丹氏の記述は、確かに事実ですが、真実ではありませんでした。
さくらそう界は、世話人たちが存命の内に、訂正してほしいものです。


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Blog『赤城山のうっさん陶芸工房』に、 匣鉢に徳利を入れて焼いた様子が紹介されていました。
匣鉢の使われ方のイメージになりましたので、紹介しておきます。
氷晶石から出るフッ素ガスを使った窯変の徳利のテストです
http://blogs.yahoo.co.jp/showwajidai/24846789.html
氷晶石からでる”ガス”を使って窯変のテストをした結果の徳利の写真です
http://blogs.yahoo.co.jp/showwajidai/24922412.html

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5 - 2 京焼の匣鉢についての研究ノート 木村茉莉
江戸時代の鳴滝乾山窯の匣鉢と現代の匣鉢は、サイズ・成型方法・胎土の点で全く異なるが、 多くの種類のものを使用するという点では共通性がある。 また、 鳴滝乾山窯から時代が新しくなるにつれて、 口径と底径が徐々に一致するようになり、 口縁部の歪みが減っている事が分かる。 口部の厚みは、 1cm代のものから2cmを超えるものへ移り、 再び1cm代へ戻っている。 それは器高にも言えることで、 グラフを並べてみるともっとも厚い時期は明治期だったと考えて良いだろう。 この時代の匣鉢が最も厚い理由は、 現在のような耐火粘土が開発されていなかったことが大きな原因だったと考えられるが、 現代よりも窯がフル作動し、
産や磁器生産も本格化し始める頃であったため、器壁が厚くなければ焼成に耐えられなかった可能性もある。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/jimu/publications/kidachi/kyoyaki/13/kidachi_kyoyaki-13.pdf

上記を読み
『農業世界』には、稍分厚(ややぶあつ)・相當(そうとう)質の堅い鉢、
『日本桜草』では、厚ぼったい、質の堅い、
鈴鹿冬三著『日本サクラソウ』では、縁の厚さ1.5cm、1.2cmくらい、質は比較的堅く、
筆者も何鉢か開けましたが、堅いわりには比較的もろいので簡単に開けられます。
と書かれた理由を知る思いがしました。

スカスカで弱いから厚くした。だから硬いけど、比較的もろい。
スカスカで弱いなら素焼き鉢みたいなものかしら。
釉薬が塗られているとはいえ、厚い素焼き鉢みたいなものなら、通気性や通水性は保たれてそう。
さくらそう会が斡旋する深谷鉢が、
外見だけど真似して瓦のように作られた鉢だとしたら、似て異なる別物ということになるかも。
上手に栽培されておられる方もたくさん居られますが、栽培には適さないのかもしれませんね。

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Posted by さくら at 19:00Comments(0)桜草の鉢

2012年03月03日

孫半土鉢.5

孫半土鉢の大きさに関しては、口径5-6寸(15-18cm)が、孫半土鉢のようです。

農業世界 昭和15(1940)年11月号付録
 口径五-六寸、高さ六-七寸、稍分厚(ややぶあつ)の常滑焼でありまして、
加藤亮太郎著『日本桜草』加島書店(昭和34(1959)年5月)
 口径、16センチから18センチ位、高さは18cmから20センチ程の厚ぼったい、常滑焼きであり、
鈴鹿冬三著『日本サクラソウ』NHK出版(昭和51(1976)年5月)
 大きさは色々ありがすが、大きなものでは、口径18-18.5cm、高さ12.5cm、縁の厚さ1.5cm、
 小さいものでは、口径16.5cm、高さ11.5-12.5cm、縁の厚さ1.2cmくらいです。
鳥居恒夫著『色分け花図鑑 桜草』学研 2006(平成18)年2月 
 口径5-6寸(15-18cm)の小形のものは孫半斗鉢(孫半と略称)と呼び、云々。
伊丹淸氏は、慎重というかあっさりとした記述ですが、『甕』を使っています。
 半斗甕よりもうんと小さかったので孫半斗と呼ばれた。

口径が内径で良いなら、私の手炙りは辛うじて孫半と呼べる、であろう代物になります。(^^;

私の手炙りに水を入れて容量を計測したら4.3リットル入りましたけど、
100円ショップの6号プラ鉢で2.4リットルですから、計測時に記録間違いしたようです。
駄温鉢7号が3.3リットルだそうですから、
1リットル勘違いしたとして、3.3リットルだと捉えると、駄温鉢7号とピッタリ同じ容量になります。

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鳥居恒夫氏は『色分け花図鑑 桜草』のなかで
『5升入りの水瓶を半斗鉢といい、口径5-6寸(15-18cm)の小形のものは孫半斗鉢と呼び、云々。』
と説明しています。

これを親族の「等親」に当てはめて考えてみますと(「等親」の解釈は色々あるようですが)
1斗を基準にして、半斗から孫にあたるのを孫半斗として考えますと
半斗の孫なら4等親=9リットルの4分の1で2.25リットルとなり、これは6号鉢サイズの容量です。

Blog日本の桜草と美術『桜草栽培史−25 幕末から明治へ(下)』2008年10月03日を読み
『桜草作伝法』では“花大ひなるハ大孫半土二本植”とある。と書かれていることを知りました。


大孫半土を大叔父大叔母のように、半斗(9リットル)のはとこ関係(6等親)と解釈すれば
9リットルの6分の1で1.4リットル。これは5号鉢サイズになります。

孫半土鉢のサイズは色々あったようですけど、偶然にしても、面白い解釈でしょ。(^^;

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Posted by さくら at 06:00Comments(0)桜草の鉢