2012年03月02日
孫半土鉢.4
私が入手したモノは、古瀬戸の手炙りだそうですが(古瀬戸なわけがない!)
孫半土とは、特定の窯を指すモノなのでしょうか?
農業世界 昭和15(1940)年と加藤亮太郎著『日本桜草』昭和34(1959)年5月)には、常滑焼。
鈴鹿冬三著『日本サクラソウ』昭和51(1976)年5月には(書かれていた気がしたが)記載無し。
『世界のプリムラ』 2007(平成19)年 伊丹淸執筆『桜草鉢について』では、何処の家の台所にもある瀬戸物。
『色分け花図鑑 桜草』 2006(平成18)年では、尾張(愛知県)の瀬戸で焼かれた陶製の雑器と明記。
此処でも鳥居氏だけが『尾張(愛知県)の瀬戸で焼かれた陶製の雑器』と主張しています。
『色分け花図鑑 桜草』を全部読み通すと、
鳥居氏が断言している記述はウソだと疑ってみると、正解がみえてくる事に気づきます。
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『ウィキペディア(Wikipedia)』瀬戸焼
瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。
* 平安時代、灰釉が施された須恵器は灰釉陶器とも呼ばれ、高級食器として流通した。しかし、平安時代末期から製品が粗悪化し、衰退していく。
* 鎌倉時代、加藤四郎景正が、宋(中国)から施釉陶器の技法を伝えたのが瀬戸焼の創始といわれる。製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。
* 室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。次第に生産拠点が美濃に移る。
* 桃山時代から、茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
* 江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった伊万里焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。
* 文化年間(1804年 - 1818年)加藤民吉親子が肥前国有田から染付磁器の製法を伝えたことから磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』常滑焼(抜粋)
平安時代末期、灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器系中世陶器の主要生産地となった。
鎌倉時代には素朴で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群の発掘調査で判明している。
灰釉陶器に由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。
室町時代になると碗・皿類の生産は行わず、壺・甕・鉢の生産に特化している。
明治時代になって、常滑の真焼甕のように作ることを求められた。
大正・昭和戦前期においても同様で植木鉢や火鉢の方が主要な製品であった。
古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑の中に入れる場合も少なくない。
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ウィキペディアを見てみると、記載されている文量は常滑焼が圧倒的であり
内容を見れば、瀬戸焼きは衰退した話しばかりです。
常滑焼は、壺・甕・鉢、山茶碗・小碗・小皿を作り
瀬戸焼は、伊万里焼や有田焼のような染付磁器を作っていたようです。
孫半土鉢を常滑焼き紹介したのは、
梅干しや塩、味噌など入れたりしていた日用雑器ということですから、窯の総称の一つとして
伊丹淸氏が『何処の家の台所にもある瀬戸物』と紹介していますが
これは『瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞』からのようですね。
鳥居恒夫氏は『色分け花図鑑 桜草』の中で
『尾張(愛知県)の瀬戸で焼かれた陶製の雑器』と明記していますが、瀬戸焼きではないと感じました。
孫半土とは、特定の窯を指すモノなのでしょうか?
農業世界 昭和15(1940)年と加藤亮太郎著『日本桜草』昭和34(1959)年5月)には、常滑焼。
鈴鹿冬三著『日本サクラソウ』昭和51(1976)年5月には(書かれていた気がしたが)記載無し。
『世界のプリムラ』 2007(平成19)年 伊丹淸執筆『桜草鉢について』では、何処の家の台所にもある瀬戸物。
『色分け花図鑑 桜草』 2006(平成18)年では、尾張(愛知県)の瀬戸で焼かれた陶製の雑器と明記。
此処でも鳥居氏だけが『尾張(愛知県)の瀬戸で焼かれた陶製の雑器』と主張しています。
『色分け花図鑑 桜草』を全部読み通すと、
鳥居氏が断言している記述はウソだと疑ってみると、正解がみえてくる事に気づきます。
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『ウィキペディア(Wikipedia)』瀬戸焼
瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。
* 平安時代、灰釉が施された須恵器は灰釉陶器とも呼ばれ、高級食器として流通した。しかし、平安時代末期から製品が粗悪化し、衰退していく。
* 鎌倉時代、加藤四郎景正が、宋(中国)から施釉陶器の技法を伝えたのが瀬戸焼の創始といわれる。製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。
* 室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。次第に生産拠点が美濃に移る。
* 桃山時代から、茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
* 江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった伊万里焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。
* 文化年間(1804年 - 1818年)加藤民吉親子が肥前国有田から染付磁器の製法を伝えたことから磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』常滑焼(抜粋)
平安時代末期、灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器系中世陶器の主要生産地となった。
鎌倉時代には素朴で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群の発掘調査で判明している。
灰釉陶器に由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。
室町時代になると碗・皿類の生産は行わず、壺・甕・鉢の生産に特化している。
明治時代になって、常滑の真焼甕のように作ることを求められた。
大正・昭和戦前期においても同様で植木鉢や火鉢の方が主要な製品であった。
古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑の中に入れる場合も少なくない。
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ウィキペディアを見てみると、記載されている文量は常滑焼が圧倒的であり
内容を見れば、瀬戸焼きは衰退した話しばかりです。
常滑焼は、壺・甕・鉢、山茶碗・小碗・小皿を作り
瀬戸焼は、伊万里焼や有田焼のような染付磁器を作っていたようです。
孫半土鉢を常滑焼き紹介したのは、
梅干しや塩、味噌など入れたりしていた日用雑器ということですから、窯の総称の一つとして
伊丹淸氏が『何処の家の台所にもある瀬戸物』と紹介していますが
これは『瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞』からのようですね。
鳥居恒夫氏は『色分け花図鑑 桜草』の中で
『尾張(愛知県)の瀬戸で焼かれた陶製の雑器』と明記していますが、瀬戸焼きではないと感じました。
2012年03月02日
孫半土鉢.3
『甕』を陶器製の容器の総称と解釈すれば、こうなります。
つまり、仕様や用途によって呼称は変わり、瓶だったり壷だったりする。
そう考えた時に、昔の日本人の感性のこまやかさの表れに読み取れが感じがして
はたと気づきました。
農業世界 昭和15(1940)年
加藤亮太郎著『日本桜草』昭和34(1959)年
鈴鹿冬三著『日本サクラソウ』昭和51(1976)年
鳥居恒夫著『色分け花図鑑 桜草』2006(平成18)年
『世界のプリムラ』 2007(平成19)年 伊丹淸執筆
上記の中で、『農業世界』と『日本桜草』『日本サクラソウ』では、孫半土と表記していますが
『色分け花図鑑 桜草』と『世界のプリムラ』では、孫半斗となっています。
『色分け花図鑑 桜草』を読みますと、
鳥居恒夫氏は画像を添えて孫半土鉢を下記のように説明しています。
『5升入りの水瓶を半斗鉢といい、
口径5-6寸(15-18cm)の小形のものは孫半斗鉢(孫半と略称)と呼び、
植木鉢に活用して、いろいろな草木が植えられていた。』
どうですか、この巧妙な鳥居恒夫氏の手口。解ります?
5升入りの水瓶を半斗瓶と言うのは理解しますが、半斗鉢という記述ではいやはやなんとも。
上記画像では、水を張り、睡蓮が栽培されているのですから半斗鉢という表記はOKです。
でも、『色分け花図鑑 桜草』は桜草に関する一応 “図鑑” と銘打っている本です。
土を入れたら半土鉢と表記するべきでしょう。
先達の書籍で半土鉢と明記されたモノを、
巧くすり替え半斗鉢としてしまうとは、
鳥居恒夫氏と伊丹淸氏、さくらそう会の手口には、まいどまいど関心させられます。