2009年10月15日
立谷沢川の夢は幻.2
化石素人の私にも分り易く、大変勉強になりました。同時に衝撃的でしたけどね。
立川町町史は平成12年3月発行ですから、執筆は平成11年=1999年でしょうか。
著は、『30年ほど前までは、庄内地方は化石の宝庫でした。』という
「庄内地方は化石の宝庫」と思い込んでいた私には、ショッキングな書き出しで始まります。
・油戸、五十川には昔鉱山があり、その捨石の中から、良質な植物化石が取れた。
・大山、科沢、若神子からは貝化石が採れた。
『しかし炭坑は廃坑となり、河川敷は護岸され、崖は吹き付け舗装となり、採取できなくなった』そうです。
道理で新しい採取年月日が無かったわけです。
30年前ごろから採取できない状況になっていたのだから、地元で盛り上がっていないわけです。
庄内地方での化石の採取年月日は1962年から1974年ごろまでが主で、高度成長期にあたり、
ダム建設や道路工事など、工事現場を探せば化石を初採取できたのです。
露頭した地層から貴重な発見が出来たのですから、興奮したでしょうね。羨ましい。
と同時に、そこで得た資料をキチンと整理して後世に伝えられている事に敬服します。
科沢地区の貝化石は、昭和62年=1987年の護岸工事の際に発掘されたそうです。
(昭和62年と言われたら、つい最近のように思えてしまうのですが、20年以上前なんですよね。)
貝化石が採取された地層は、
『現在の護岸上部より5m下』だそうです。
この護岸ブロックの基礎の部分に貝化石が眠っているんですね・・・。
著の中には『中山の、本流へ突き出した崖』『本流へ突き出した崖を削った跡』と書かれていました。
本流へ突き出した崖とおぼしき場所には、草が生い茂っていたので行ってません。
『本流へ突き出した崖』と此所の山の位置から、昔の川の流れを推察するに、
川は大きく右へ蛇行していたでしょうから、此所は土盛りして均して造った土手のようです。
土盛りなので、親水施設も(工事費用の面からも)造り易かったんでしょう。
この護岸工事&土盛りがなされていなかったら、ひょっとしたら、ひょっとしたらですが
大渇水の際には河床が露出して、寒河江川のように、化石採取を楽しめたかもしれませんね。(^^;
対岸には炭化した木片化石を見つけた崖が見えました。
『対岸にもあるかも・・・』と、馳せる思いでこちらも探索してたんですけどねえ・・・。
立谷沢川の貝化石採取の夢は幻しに終わりそうです。
「立川町町史上巻 第一編 自然 第三章 地質の項」の内容は私にはショックで、詳しく覚えていませんが
長年の調査の結果、巻き貝など160種?も採取したそうです。
たくさんの化石が採取されたのは間違いないので、草が生い茂っていない季節に、また探訪したいと思います。
最後に、佐藤 幸廣氏は化石の定義についても書かれていました。
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化石とは元々ラテン語のfossilという言葉の訳であって、
『掘り出されたもの』という意味はあっても、“固い”という意味ではない。
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いやはやなんとも。目から鱗が落ちました。
化石発掘というとハンマーで石を割って作業しているイメージがあり
化石=石=鉱石=固い。と勝手に思い込んでいました。
葉っぱの化石がボロボロと割れたのも、当然のことなんですね。勉強になりました。