越智英一郎氏の桜草鉢.2

さくら

2013年08月30日 19:01

仙台さくらそう会の浦澤さんがくださった、
故越智英一郎氏がさくらそう会へ寄稿された記事を紹介いたします。


我が家のさくらそう鉢  越智英一郎

 桜草の鉢について何か書けとのことでしたが、ペンをとってもなかなかうまく書けぬので、一たんはお断りしようかと思ったのですが、これが最後になるかもしれぬと思い、書いてみることにしました。
 鉢のことの前に話しておきたいのは、前にご覧に入れた鉢に桜草の花を浮べた人形のことです。これは小生の甥で、今治市外の朝念村に登り釜を作り、製陶に精進している山内達雄君の細君の瑠璃チャンが、拙宅の桜草を見て、ヒントを得たと云って作ったもので、題して「花開く」と箱書きがしてあります。拙宅では桜草の花時になると、この鉢に花を浮かべて眺めるのを、毎春の楽しみとしております。


 往年「さくらそう会」に入会の直後、会より孫半斗鉢分譲のニュースがありました。直接現物を引取るのが条件でしたが、丁度長男が学生の頃で、荻窪の親類に下宿していたもので、十五個程を分けて頂き、帰郷の度ごとにネズミが引くように三〜四個ずつ持帰りさせました。
 この孫半斗鉢の写しを作ってもらう気になり、諸方の窯元を訪ねて製作を依頼しました。先づ松山市郊外の砥部(トベ)を皮切りに、九州の小鹿田(オンタ)、備前の伊部(インベ)、土佐の能茶山(ノサヤマ)と次々歩き廻りました。砥部と小鹿田は鉢そのものは立派だが、小さ過ぎたり色が気に入らず断念しました。伊部のは値もあまり高くなく、できも立派でしたので前後二回依頼し、東京の会員方にもおすすめしようと思っているうちに、業者が介入したのか急に大幅な値上げとなりました。大山さんも窯元を訪ねられたようでしたが、価格の点で断念されたようでした。
 能茶山窯は登り窯で、松材を使って古くより大小様々の鉢を焼き、独特の色を「さび」と云っておりました。窯主の谷清之助氏は、ちょっと現代離れした仁で、作っている五郎八茶碗(昔、四国遍路が持ち歩いた一番安物の茶碗)が、抹茶茶碗として東京の茶人達に評判がよく、博多のある百貨店より注文があったので三十個程送ったが、全部割れてしまったということで、代金は一文も貰えなかったと言って、けろりとしていました。荷造りの下手なことはよく知っていましたが、全部割れたとはあきれてました。
 この人の鉢は、孫半斗の写しとしては大へんよく、伊部の整然とした美しさのものより、ボーッとした感じのこの方が自分には好ましく思われます。価格も非常に安かったので、当時の二、三の会友にもすすめて、次々に百、二百と注文をしました。土佐からは遠いようですが、時には所用ができたからと云って、砥部の知人のところまでまとめてとどけてくれ、こちらの車で引取ったこともありました。
 千葉在住の会友榊原洋子夫人(故人)にも、鉄道便で100個送ったことがありましたが、破損がひどかったので、次には船便で送り、これはうまくついたようでした。
 花友でもあり、陶芸家としても有名な京都の河合卯之助氏(故人)が言っていました。「陶器は生き物です。手を経ると共に変ってゆきます。李朝の陶磁器でも、もう少し土中にあったら腐っていたでしょう。丁度掘り出す時期が良かったのです。云々。」と。
毎年沢山のさくらそうを植えかえていると、時にオヤと思うことがあります。手にした鉢が無キズの孫半斗鉢であるのに驚き、あらためてよく見ると能茶山窯の鉢でした。たしかに作者の人柄を、にじませているようです。
 我家では伊部、能茶山に、一花友が譲ってくれた手作りの超特級信楽焼の五〇個を加え、七〇〇鉢で毎年植えかえにいそしんでいます。老歳八六才、この後何年作れますことやら。
 さくらそう
  佳き人の息ふれにけり
          杏史
(一九八六年七月)



越智さんの桜草鉢  鳥居恒夫

 四国壬生川の越智さんをお訪ねしたのは、一九八三年の十一月で、丁度ご丹精の嵯峨菊の盛りで、ご夫妻に歓待していただいて、想い出深い一夜を過ごさせていただいた。
 翌朝拝見したお庭は、休眠中の桜草の鉢で一ぱいであったが、その中で私の目にとまったのが、土佐の能茶山窯の桜草鉢であった。見本として一鉢頂戴したのだが、お言葉に甘えてサクラソウが植えてある鉢を、私は無理にとりかえていただいたのであった。写真のものがそれで、直径五寸、孫半斗鉢を写したとされるが、深さは浅くお椀のような形で、色は茶色である。沢山並んでいた能茶山鉢の中でも、特に目についたものだった。越智さんのお話にある通りで、この鉢を見ていると、これを作った陶工の人柄にふれて、気持ちがなごむのが自分でもわかるのである。
 私方には大山玲瓏氏が収集された桜草鉢を、そっくりお引受けして大切に保存している。この様々な桜草鉢を、神代植物公園でのある研究会の際に並べて見せたことがあった。その折りには花友であり学友でもある伊丹清君もやって来て、これをしばらく眺めていた。私は彼のことだから、きっと能茶山の鉢に目をつけるだろうと確信しながらも、黙ってその目の動きを追っていた。次の瞬間彼の手が伸びて、能茶山の鉢を取りあげたのである。
 植木鉢は草花を育てる容器で、主役はあくまでの中の草花、引立役である植木鉢が美し過ぎたり立派であると、草花が負けてしまう。しかし草花と一体となって、上品な美しさをかもし出すだけの、風格のあるものであってほしい。一見しただけでは汚くも見え、あちこち欠けてはいるものの、孫半斗鉢には大量生産の植木鉢にはもち得ない風格がそなわっており、手づくりだけに持ち上げたとき手に納まりがよくて軽く、持ち運びしやすいという機能性もあわせ持っている。もとは台所などで使われた雑器だという孫半斗鉢は、まさに民芸品そのものである。
 越智さんが、能茶山窯の桜草鉢をほめられたのは、孫半斗鉢の心がそこに写されているからではないだろうか。



さくらそう会のさくらそう鉢

 江戸時代以来使われてきた孫半斗鉢は、台所の雑器であった壺に底穴を明けて植木鉢に利用したものでありましたが、サクラソウ作りには最適なものでしたので、新たに求めることが困難となった大正の頃から、多くの人がこれをモデルとした植木鉢を各地の窯元へ発注をして試作してました。
 当会でも早くから世話人代表だった大山玲瓏氏が苦労されて、始めは益子のちに信楽で作らせました。その後伊丹清世話人によって、深谷市の加藤製陶所で試作がなされ、改良の結果現在の形のものが生産されるようになったわけです。
 サクラソウもよく育ち、直接注文して送っていただけるので、大へん安価に手に入れられることは、実に有難いことです。今期までは昨年と同じ価格で提供していただけることになっていますが、窯元の経営を続けてゆく努力は、なかなか大へんだと思います。多くの関係者の努力でできたさくらそう鉢です。どうぞ大切に扱っていただけますように。


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