桜草鉢.5 京王百花園

さくら

2012年06月04日 19:00

浪華さくらそう会の山原さんは、Blogを拝見しますと2011年に定年退職されたようなので、今年61歳。
仙台さくらそう会の浦澤儀一さんは今年77歳。鳥居恒夫氏は1歳年下とのこと。15歳の年の差になりますね。

山原さんのBlog日本の桜草と美術2011年02月25日『桜草短型鉢の由来』には、
桜草鉢のことが記載され、京王百草園と尾崎哲之助が登場します。
この記事を今まで何度か繰り返し拝見していましたが、正直理解できずにいました。
しかし、浦澤さんから話しを聞いた後に読み返すと、合致する内容になっているではありませんか。
(2010年11月25日『私の使用する桜草鉢』もあり。)


山原さんのBlogに掲載されている、山原さん所有の丹波短型鉢も、
写真撮影時のアングルの違いから違った形状の鉢に見えましたが、
よく見ると同じです。特に右の緑の鉢は、全く同じですよね。


緑の鉢には釉薬がかかっていますが、実は仙台市野草園に1鉢だけ釉薬鉢がありました。
浦澤さんは私に指摘されるまで存在を知らなかったようで、初めて見たそうです。


山原さんはBlogの中で『丹波鉢の短型鉢』と表記さえています。
浦澤さんは、伝市窯で模して焼いてもらった鉢と言われました。
今の市野伝市窯で焼かれたのか分かりませんけど、『丹波の鉢』であるようですね。


> 桜草にふさわしいものと直感して購入した。他では売っていなかったようである。
> こんな珍しい形の鉢がどうして作られたのか、今までよくわからなかった。


桜草にふさわしいと直感されたとは流石。尾崎哲之助同レベルの素晴らしい美的センス。
鉢の由来をよくわからなかったというのは、浦澤さんとの15歳の年の差からだったのですね。
(現代の第一人者に対する失礼をお許しください。(^^; )


> 彼の著『朝顔抄ー花とともに六十年』を繰ってみると。
> 知り合いから譲られた清水六兵衛作の桜草鉢を見本に
> 丹波で桜草鉢を作らせたという記事にであった。


清水六兵衛作の鉢を参考にされたことは浦澤さんも言われてました。
丹波のどの窯で焼いたのかは山原さんのBlogには書かれていませんが
浦澤さんは、伝市窯の隣りに、この鉢だけを焼いていた爺さんがいて、そこで焼いたと言われてますから
京王百草園勤務の尾崎哲之助の依頼を受け、専門に造り続けていたのでしょうね。
最後は土が無くなったので製作を止め、亡くなってしまったので伝市窯へ依頼した。
と浦澤さんは話してくれました。

閑話
ちなみに、岐阜の5つ子ちゃんのお父さんは
名古屋芸工大を卒業後、清水焼きで4年間修行された後に独立。
奥さんの実家の敷地内に窯を設けたそうです。
真意ははかりかねますが、陶芸家と鉢職人は何かプライドが違うらしく
始めは鉢を作る事を渋り、しばらく浦澤さんの依頼を断っていたそうです。
現在も焼かれているかは未確認、不明です。
閑話休題


> 京王百草園となった今でも春には桜草の展示が行われていて、
> そこに彼の丹波短型鉢が使われているのである。
> 鉢に横筋が入っていたり、凹みがあったりするのだが、
> 紛れもなく全体の形は私のものと同じである。


山原さん所有の丹波短型鉢は、螺旋状ではなく横筋なので、
最初の爺さんが亡くなった後に伝市窯で焼いてもらった復刻品ということになります。
凹みがあったりする鉢も復刻されたか分かりませんが、
最初の爺さんが焼いた鉢は、螺旋状の溝になっています。


尾崎哲之助さんは朝顔の第一人者だそうです。
朝顔の一般的な仕立ては3本の支柱を使う行灯仕立てだそうですから、凹みがる鉢は、
外側を凹ませて内側に凸さることで、3本の支柱がズレないようにしたのかもしれませんね。




> ところでこの型の鉢がなぜ関東で普及しなかったのであろうか。
> (中略)
> そして「さくらそう会」は伝統的な孫半斗鉢にこだわって、
> 尾崎氏由来の丹波鉢や香炉型の朝顔鉢に関心を寄せなかったようである。


関東で普及しなかった鉢が、なぜ仙台に大量に在るのだろうか。
それはどうやら、当時から現在と同じく、満足いく桜草鉢が存在しなかったからのようです。

浦澤儀一さんは、ご近所に住まわれていた先代の仙台さくらそう会の佐々木三郎さんから
昭和39年に苗を貰ったことを機に桜草栽培を始め、直ぐに東京のさくらそう会へ入会したそうです。
佐々木三郎さんは昭和34-35年頃から桜草栽培を始め、東京のさくらそう会へ入会して品種を蒐集。
当時は種苗業者でも桜草は取り扱っておらず、
品種を蒐集するには、さくらそう会へ入会するしかなかったそうですが、閉鎖的なところがあり、
なかなか譲ってもらえなかったそうで、桜草鉢も同様だったご様子。

東京のさくらそう会の諸先輩たちは、江戸時代からの孫半土鉢を使い、展示されていたそうですが、
当然の如く地方の新参者に孫半土鉢を譲ってくれる者はいませんし、
肝心の孫半土鉢もさすがに劣化して痛んでいたり割れたりで、展示するだけの鉢数が揃わなくなり、
鉢不足を懸念されていたそうです。その当時購入できた桜草鉢が、大鐘あぐり女史の益子の鉢で、
佐々木三郎さんは購入されていたそうですが使っている内に塩みたいな白い結晶が湧き出てきて駄目で、
信楽で焼いたけど、それも芳しくなかったそうです。

「さくらそう会」は伝統的な孫半土鉢にこだわり、
益子や信楽で、孫半斗鉢を参考にした鉢を求めていたわけですが、
仙台では、益子から仙台へ鉢を送ってもらっても梱包が悪くて結構な数が割れてしまうことから
「どうせなら!」と思い切り、浦澤さんは全国に桜草鉢を求め歩き回り、
奈良の高鴨神社の鈴鹿冬三さんと京王百草園の尾崎哲之助さんを訪ねに行かれたそうです。
(京王百草園には、当日は激しい雨で最寄りの駅からでることができず、行けなかったそうです。)

そんなこともあり、尾崎哲之助さんの丹波鉢の短型鉢を購入されたそうです。
購入先は、今は無くなったそうですが仙台市の陶器店から取り寄せてもらい、購入したそうです。
(割れた時に損失を被ることありませんから)
しかし大量に仕入れたのでかなり売れ残り、最後は仙台市野草園が引き取ったそうです。



浦澤さんは話し好きで、いつもたくさん話してくれますし
素晴らしい記憶力でスラスラと話してくれるので、会話が楽しくてしかたありません。
しかし、聞き手である私が無知なので話しを膨らませませんし、記憶力も悪く、覚えきれないのが難点。
なので一旦話しを整理しますと、
・尾崎哲之助さんが焼かせた、丹波の窯元の爺さんの名前は不明。
・伝市窯の隣りの窯の爺さんと言われますが、真偽を私は確認していませんし術がないので不明。
・爺さん亡き後の復刻品を焼いたのが本当に伝市窯なのかも、同様に確認していませんし不明。
 でも、高台を見た時『あれ、伝市鉢に似てるぞ???』と直感したのは確かです。
これ以上のことは、今は分かりません。


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