2010年02月05日 20:57
「霞の衣」と「化粧の舞」を見比べてみると、花容は似ておらず、同品種とは思えません・・・。
『「蝶遊」「化粧の舞」現存品と同品』とは、どういう意味で、どこに記載され誰が言ったのだろう?と疑問に思ったら
「化粧の舞」は、このBlog2010年01月09日『同一の遺伝子』に載せてました。
花容は似てなくともDNAは同じだから同一品種、という科学的見地からの記述のようです。
でも・・・でも・・・それで良いのだろうか・・・。
他の品種の記載は主に鳥居氏の著に因るものでしたが、それらと比べて今回は科学的過ぎ。大城先生、ダブルスタンダードでは。
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本城正憲 著『サクラソウ集団における遺伝的多様性の保全 に関する分子生態遺伝学的研究』
51ページ 1.マイクロサテライト変異より抜粋。
分析した127品種のうち、「錦葉集」と「飛竜」、「越路の雪」と「香炉峰」、【「霞の衣」と「化粧の舞」】、
「神風」と「西王母」、「牡丹獅子」と「衣通姫」、「国の光」と「六玉川」、「槇の尾」と「獅子奮迅」は
それぞれ、全8マイクロサテライト遺伝子座において同一の遺伝子型を示した。
『品種識別、親子関係、由来に関する情報』と「霞の衣」に無関係な話しで恐縮だが
(鳥居56ページ「銀孔雀」:「露の衣」の名で伝わっていたものは同品種。)
と書いてあるのだ。「露の衣」という品種は存在するのか。web検索してみたが
『サクラソウ127園芸品種の葉緑体DNA型』とこのBlogしかヒットしませんでした。
此処までの経緯から邪推するに、東京のさくらそう会が勝手に改名または命名した結果間違えた、だけの話しに思えてしまう。
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鞍馬 β 長花柱花 ? 自然によく結実する
(鈴鹿「鞍馬」の記述なし)
(鳥居77ページ「鞍馬」:僅長柱花 類似品種三保の古事。三保の古事は濃い裏紅で、草丈が低いので見まちがうことはない。)
(鈴鹿148ページ「三保の古事」:昔からの名花の1つ。性質は弱く、繁殖力も悪く、多湿を嫌います。)
(鳥居37ページ「三保の古事」僅長柱花 江戸末期:繁殖力はあるが、性質が弱くて、株を維持できる人が少ない。)
鳥居氏は「三保の古事」を【繁殖力はある】と言っているが、全文に説得力を感じない。此処でも鈴鹿氏を意識したか。
『今更ですが.13』「緋の重 H 4倍体」へ、浪華さくらそう会長山原氏より
“鳥居氏は『「緋の重」は4倍体なので育てにくい』と書くべきだった”という主旨のコメントを頂戴した。
山原氏のBlogを拝読すると、同じく4倍体の「大和神風(やまとかみかぜ)」の栽培で苦労されておられる。
栽培経験浅い私事で恐縮ですが、私は3倍体の「紫雲の重」で苦労しており、3年連続1輪しか開花させられず芽数も増えない。
枯れたり消滅せずに生きているのだから、性質が弱いとは思わないが、繁殖力があるとは思えない。
品種が違うけど「三保の古事」と「紫雲の重」は同じ3倍体。「三保の古事」に【繁殖力がある】とは想像できない。
大和神風は、鳥居氏&東京のさくらそう会では「神風(じんぷう)」と認識され、広言、表記されている。
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花孔雀 β 長花柱花 大正 田村景福 「手中の玉」と同じ可能性
(鈴鹿158ページ「花孔雀」:大正年間に田村景福作出の「手中の玉」と同品と考える。)
(鈴鹿153ページ「手中の玉」:大正年間、本郷駒込の田村景福氏の作出。「花孔雀」と同品と考えます。)
(鳥居86ページ「花孔雀」:僅長柱花 1918年ごろ 田村景福発表 類似品種記述なし。
「手中の玉」の名で呼ばれていたが、花容に合う「花孔雀」の名で認定品種とした。)
作出者が同じ人なのに、異名同種となった経緯が不思議だが、
異名同種の可能性が高いとしても、鳥居氏や東京のさくらそう会が勝手な判断で品種名を定めて良いわけがない。
鳥居著「色分け花図鑑 桜草ー名前の由来と品種がわかるー」が会報ならしかたないが
そうではないから銘打った主旨に反するし、読者を欺き、古典園芸さくらそうの先人と未来を汚す行為だ。
ちなみに
『鈴鹿147ページ紫宸殿:浪華さくらそう会幹事中村長次郎氏の作出命名。昭和43年播種、45年に選出。親は「手中の玉」。』
と記載されているが、鳥居著「色分け花図鑑 桜草ー名前の由来と品種がわかるー」125ページ「紫宸殿」には、その旨一切無い。
鳥居氏と東京のさくらそう会は『紫宸殿』を品種認定No.259としながら、勝手な判断から、作出の経緯を黙殺する気のようだ。
web検索していると「手中の玉」の画像が見当たらない。代わりに「酒中の玉(しゅちゅうのたま)」ばかりヒットする。
「手中の玉」東京のさくらそう会認定品種ではないので、鳥居著「色分け花図鑑 桜草」には載っていないが、
「酒中の玉」は認定され掲載さている。鈴鹿著「日本サクラソウ」に「酒中の玉」の記載はない。
・・・まさか?!
鳥居氏と東京のさくらそう会の解釈では、「花孔雀」と「手中の玉」は異種同名なので、「手中の玉」は現存しない。
ゆえに『(しゅちゅうのたま)』という呼び方を勝手に奪い、
得体の知れぬ個体に漢字表記を「酒中の玉」に変えて、訂正という改名行為を行ったのではあるまいな・・・。
鳥居氏と東京のさくらそう会だけに、有り得ない話しではない。
(鳥居28ページ「酒中の玉」:僅長柱花 江戸末期 類似品種記載なし。3倍体の品種で、云々。)
埼玉県花と緑の振興センターの記述には何も書かれていないが、他の3倍体等の品種の所には、3倍体等記載されている。
そもそも「酒中の玉」って、どういう意味でしょう。桜草の品種として変じゃないですか?
大城氏は、DNA(研究)に関係してきそうな、こういう箇所だけは抜け目なく、記述を変えてくる(笑)。
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艶姿 β 長花柱花 昭和初年 鈴鹿義一
(鈴鹿155ページ「艶姿」昭和初期、鈴鹿義一の作出命名:性質がやや弱いのが欠点)
(鳥居131ページ「艶姿」:長柱花 昭和初(1927)年頃 鈴鹿義一発表 類似品種「通小町」。着実に繁殖する。 )
鈴鹿氏は、義父の作出命名でありながら、此処でも簡素な説明。
作出命名者の息子さんが【性質がやや弱いのが欠点】と語っているのに、
鳥居氏は「三保の古事」の解説文同様【着実に繁殖する】と記している。
鈴鹿氏よりも栽培技術は卓越しているのかもしれないが、“着実”という言葉を安易に使うべきではない。
(鈴鹿143ページ「通小町」謡曲中からの日本サクラソウ品種名)
(鳥居129ページ「通小町」:短柱花 明治後期か 類似品種「藤娘」「艶姿」。名は謡曲に出典がある。)
(鈴鹿162ページ「通小町」:薄色表白大輪)
(鈴鹿166ページ「藤娘」:表白裏薄藤色大輪)
(鳥居132ページ「藤娘」:短柱花 江戸末期か 類似品種記載無し。栽培者はたいへん少ない。過去には通小町を藤娘として栽培する人が多かったが、最近ではほとんどないようである。)
鈴鹿氏は「通小町」と「藤娘」をキチンと区別した表記をされてますから、間違いが多かった地方は関東地方という事でしょうか。
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無礼講 β 短花柱花 昭和57年 「南京絞」とも呼ばれる
(鈴鹿「無礼講」記述無し)
(鳥居153ページ「無礼講」:短柱花 1982年認定 古花の無礼講は存在せず、現在のものは二代目である。 )
(鈴鹿「南京絞」記述無し)
(鳥居「南京絞」記述無し)
古花の「無礼講」の存在は知りませんが、鳥居氏が『現在のものは二代目』書いているのですから、存在したのでしょうね。
古花の「無礼講」は存在した事実があるなら尚更のこと、
作出者不明とおぼしき品種を使い、現存しないからという理由で、勝手に品種名を乗っ取って名乗って良い分けはありません。
それが品種の整理と統一を図る手段といえるのでしょうか。東京のさくらそう会の見識をうかがいたい。
大城氏にも訊ねたい。
学理論文の中で、こういう品種を研究の資料として使い、結果報告に含めてしまって、良いのでしょうか?
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赤蜻蛉 β 2倍体 短花柱花 明治?
(鈴鹿149ページ「赤蜻蛉」:性質は弱くはないが、根腐れを生じやすいのが欠点です。)
(鳥居「赤蜻蛉」:短柱花 明治中期か? 類似品種 緋の袴 緋の重。
野生の中から発見されたと考えられるが、花形と名称に誰もが納得する。)
(鈴鹿150ページ「白蜻蛉」:赤トンボと対比して命名されたされたものでしょう。性質、繁殖力ともに強健です。)
(鳥居61ページ「白蜻蛉」:短柱花 昭和前期か 類似品種記載無し 。
赤蜻蛉に対して命名されたが、花形は少し異なる。性質が野性的で強く、芽もよくふえる。)
↑
赤蜻蛉に対して命名されたと、なぜ断定できるのか不思議。
鳥居氏は「赤蜻蛉」を『野生の中から発見されたと考えられる』とされていますが
「白蜻蛉」では『性質が“野性的”』と、抽象的な言葉使いをされています。
“野性的”という言葉の意味がよく判りませんけど、
「赤蜻蛉」も野生の中から発見されたと考えられるので『性質、繁殖力ともに強く、芽もよくふえる』という教えでしょうか?
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折紙付 β 2倍体 長花柱花 昭和初期 池田喜兵衛 「遠山霞」とも呼ばれる
(鈴鹿150ページ『折紙附』:江戸時代から伝わる薄色系の代表名花です。
性質はやや弱く、花数も少なく、肥培して日光に当てすぎると抱え咲きのようになります。)
(鳥居137ページ「折紙付」:僅長柱花 昭和初期 池田喜兵衛発表。類似品種掲載なし。
はじめは遠山霞と呼ばれたが、“荻”の上風も同様に呼ばれることがあり、改名後の折紙付を正式の名として認定している。)
(鈴鹿165ページ「萩の上風」)
(鳥居「“萩”の上風」記述無し)荻の上風
(鳥居139ページ「“荻”の上風」:長柱花 明治中期 類似品種記載なし。
「“萩”の上風」の名で通っていたが、出典は和歌や謡曲にあり、「“荻”の上風」に訂正した。)
埼玉県花と緑の振興センターは「“萩”の上風(はぎのうわかぜ)」
筑波大学農林技術センターでは「“荻”の上風(おぎのうわかぜ)」。
鈴鹿148ページ「漁火(イサリビ)」の項に、
元来、日本民族は、イの次にくる音は濁点があるほうがいいやすい民族で、
正式にはイザリビであったものが、イザリビとなったらしく、
その証拠に、謡曲本には、あえてそのとことに、スムと注釈がしてある。
という記載があります。
古典園芸のさくらそう文化の中に、読み方も正しく伝えようという姿勢が現れているのに
『はぎのうわかぜ』と『おぎのうわかぜ』を間違えるものでしょうか。
鳥居氏と東京のさくらそう会では、「大和神風」を「神風」に訂正?しましたが
「神風」を「じんぷう」と読むものでしょうか?
『玉“光”梅』と『玉“紅”梅』、『万“歳”』と『万“才”』、『手中の玉』『酒中の玉』という漢字表記でも、読み方に違いはありませんでした。
「“萩”の上風」と「“荻”の上風」では、漢字表記の違いよりも、読み方が違うということが理解しかねます。
私は鳥居氏と東京のさくらそう会が、此処でも勝手な解釈で判断したと感じます。
(鈴鹿「遠山霞」記述無し)
(鳥居「遠山霞」記述無し)
(鈴鹿158ページに『遠霞』の記述あり。遠霞:昭和初期鈴鹿義一の作出命名。類似品に紫雲竜がある。)
(鈴鹿164ページ「遠山桜」)
(鳥居84ページ「遠山桜」:同長花 昭和前期か 類似品種記載無し。古い記録には存在しない。)
「折紙附」が「遠山霞」と呼ばれたそうだが、「折紙附」も昭和初期。『遠霞』も昭和初期鈴鹿義一の作出。
鈴鹿義一の作出の『遠霞』が東京へ出回るのには時間が掛かったと考えられますが、噂は千里を駆けると言われるので
勝手に品種名を変えてしまう東京のさくらそう会が、実物を入手するまで待ちきれず、
「これか?」「これか?」「違うのか?」とやっている内に気持ちだけが先走り『遠霞』と「遠山桜」をごっちゃにして「遠山霞」としてしまったのでは?
上記は私の勝手な憶測を書いてしまいましたが、鳥居氏の解説を読みますと
池田喜兵衛は発表時に「遠山霞」と命名したものの、
「萩の上風」と混同されてしまうために『折紙附』へ改名したというのでしょうか?
鈴鹿氏は『折紙附』を江戸時代から伝わる薄色系の代表名花です。と表記され、「萩の上風」のことも別記しています。
曖昧なのは鳥居氏と東京のさくらそう会の主張であり、
東京のさくらそう会の「折紙付」「遠山霞」「萩の上風」は、とても怪しく危険な代物に思えてきました。大丈夫?!
鳥居氏と東京のさくらそう会が古事を尊重せず、身勝手な解釈と憶測で品種名を判断した結果、
現代のさくらそう愛好者を、とても危険な目に晒してしまっている気がしてなりません。
鈴鹿氏は『折紙附』、
鳥居氏は「折紙付」。
webで『折紙附』と検索すると、日本刀のサイトに『折紙附』がヒットします。
webで「折紙付」と検索すると、Q&Aサイトがヒットして、
「折紙付」とは、鑑定証や保障証が付いている程、ちゃんとした物です!と教えてくれました。
古典園芸であるさくらそうなら、『折紙附』という表記が正しいのではないでしょうか。
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風車 β 2倍体 長花柱花 昭和10年頃 大鐘あぐり
(鈴鹿150ページ「風車」:昭和10年ごろ、東京の大鐘あぐり女史の作出命名)
(鳥居113ページ「風車」:江戸末期。昭和10(1935)年頃 大鐘あぐり発表)
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玉紅梅 β 2倍体 長花柱花 江戸後期
(鈴鹿153ページ『玉光梅』:玉紅梅と読む人もあるが、玉紅というウメの品種に由来し、ウメの玉光もサクラソウの玉光梅も花が「本紅中輪」とあるから右に由来したものと考えます。柴山政愛氏、伊藤重兵衛氏、上林松寿氏などの記録、佐々木尚友氏と上原梓氏共著『桜草の作り方』などにもすべて「玉光梅」となっています。)
(鳥居23ページ「玉光梅」:長柱花 江戸末期 類似品種記載なし。名は花形による。)
↑
また投げやりな品種名由来ですこと。文字通りですね。
しかし
鈴鹿氏、鳥居氏、埼玉県花と緑の振興センターと筑波大学農林技術センターでも『玉“光”梅』。
でも大城氏の資料では『玉“紅”梅』
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北斗星 β 2倍体 短花柱花 昭和10年頃
(鈴鹿150ページ「北斗星」:昭和10年ごろ、奈良市の久米道民氏の作出命名。なお、同氏は、小輪系統の実生に熱心な植物学者でした。)
(鳥居91ページ「北斗星」:短柱花 昭和10(1935)年頃久米道民発表 類似品種記載なし。)
大城氏の資料に作出者名が記載されていないのが不思議。
久米道民氏は同じ植物学者ということで、何かしらしがらみがあり、わざと載せないかしら。
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瑠璃殿 β 2倍体 短花柱花 江戸後期 「還城楽」現存品と同品
(鈴鹿159ページ「瑠璃殿」:薄紫の広弁抱え咲き大輪で豪華であるが、どことなく風情に乏しい。性質はあまり強健とはいえない。)
(鳥居124ページ「瑠璃殿」:短柱花 江戸末期 類似品種掲載無し。
株が小さく、花色が淡く、目立たない存在だが、よく見ていると味わいのある花。小形の白い芽で、たいへんよくふえる。
還城楽の名で存在したものは同品種。
上野の寛永寺の根本中堂には「瑠璃殿」という宸筆がかけられており、本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来の正式名という。名は瑠璃色ということ。)
鈴鹿氏は「性質はあまり強健とはいえない。」と述べ
鳥居氏は「たいへんよくふえる。」と言う。
この二人はいつも意見が別れるが、鈴鹿氏が述べていない品種では鳥居氏も記載がなく、意識的に対比法で書いているとしか思えない。
ゆえに鳥居氏が「還城楽の名で存在したものは同品種。」と断定する拠り所は、鈴鹿氏の下記の一文ではあるまいか。
上野の寛永寺の件は不要で、蛇足にもならない。
(鈴鹿152ページ「還城楽」:名花ですが性質はやや弱く、類似品に「瑠璃殿」があり、同品ともいわれていますが、
これは性質も強く、その年のできばえで色彩もいくぶん変わるので、再調査の必要があります。)
(鳥居「還城楽」記載なし。)
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今回も色々あった。『手中の玉』と『酒中の玉』。
『萩の上風(はぎのうわかぜ)』と『荻の上風(おぎのうわかぜ)』
鳥居氏と東京のさくらそう会は、絶対におかしい。
東京のさくらそう会は主旨に反して、さくらそう界を混乱に導いているとしか思えない。