2011年05月23日

遊佐大楯の葦ヤズ

故小林ヒデヒコ先生宅の庭には花筒白の野生品種的白花が咲いていて、
これは鶴岡では見かけないのだが、遊佐町では良く見かける。
故小林ヒデヒコ先生は蕨岡小学校に勤務したこともあるそうな。

故斎藤先生が酒田市若竹町に住まわれていたとき
そのお隣りに済む斎藤さんの証言によると
「故斎藤先生は『庄内白は鳥海山産』といわれた。」とのこと。

櫛引の故安野悌治先生は庄内白を所有しておらず
遊佐の故菅原デンスケ先生は庄内白を所有していた。
故斎藤先生は当初、庄内白しか所有しておらず
鶴岡の女性教諭と庄内赤と交換して、庄内赤を入手。それ以降桜草を収集するようになった。
これらのことから故斎藤先生の庄内白=私の庄内白は、遊佐町産の可能性がでました。

遊佐町大楯地区にはその昔、桜草の自生地があり、
大楯地区にはその自生地から直接「俺が採ってきた」
と話す庄内赤を栽培している高橋爺さん74歳が居ます。
高橋婆ちゃんの方が記憶が良くて、色々話してくれます。
高橋婆ちゃんは月光川右岸の吉出地区から嫁いできて、初めて桜草を知ったといいます。

高橋爺さんに大楯地区に在った桜草の自生地の岡のことを尋ねてみました。
すると、「岡でねぐで、葦ヤズだ。」と言われました。
遊佐の人たちからは
「大楯地区に岡があって、そこの生えていた。」
と聞かされていたのですが違ったようです。
「今の大楯地区の、どの辺りに葦ヤズ在たなだ?」
と聞くと、返答に困ったようで
「どの辺りって・・・昔の遊佐中学校の辺りみんなや。」
とのこと。かなり広大な葦原だったようです。
広大過ぎて、広大な葦原の中に大楯地区が在ったようなもんらしいです。

ただ、色々話しを聞いていると、河川敷の平らな葦原と違うようで、やはり岡だったようです。

冬場はスキーして遊んだほど高さがあり
下の方には村の稲の苗床があったそうです。
当時は出水(湧き水)が豊富で、
出水の川が葦ヤズの中を流れ、山菜のミズも採れたそうです。
出水の川は幾本も流れていて、当時は出水の田んぼが多かったそうです。
しかし、高橋爺さんは、白い桜草を見た事はないそうです。

故菅原デンスケ先生のことを訊ねると
「デンスケとは親子(親戚)だ。」そうで
74歳の高橋爺さんの爺さんの子供の子がデンスケさんだそうです。
しかしデンスケさんが桜草を持っていることは知らない。とのこと。

遊佐町で、葦ヤズの他に桜草の自生地は在ったのか訊ねると
爺さん婆さん二人同時に「ない!」と即答で断言されました。

それでも高橋爺さん宅にも庄内白が在るので
いつ、どこから入手してきたのか訊ねると
爺さんは「う〜ん、判らない(忘れた)。」と言いましたが
婆さんが「カンベ(カンベイという屋号)からだ。もらたろ。」
と言いました。二人が思い出しながら話し合うと
カンベ(正しくは勘兵衛=カンベエ)の嫁さんが何処からか買ってきて、
それを分けてもらったそうです。

「何処で買ってきたなだ!?」
「判らねえ・・・。」
「もらたなでねぐ、買たなが?」
「う〜ん、判らねえ。」
「んだば、いつ頃、何年前にもらてきたなだ?」
「20年もなっがのう・・・。」
「20年前というと爺ちゃん50歳だぜ。もっと前でねがったが?」
「(!)、うんだ、あんどきは若かったがらの。50歳ではねの。」
ということで25-30年前と推察。
今度カンベさんに聞いておくとのこと。


閑話
月光川左岸今の遊佐中学校の上流にサクランボ畑があり
杉沢地区を流れる熊野川と月光川の合流点の上には吊り橋があり、深い淵でした。
私にはその記憶があるのですが、大楯地区の葦ヤズの記憶がありません。
高橋爺ちゃんの記憶は、本人が思っている以上に古いのではないでしょうか。

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Posted by さくら at 12:00│Comments(0)日本桜草11
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