2007年05月09日
安野悌次先生宅へ
今回も色々貴重はお話し聞かせていただきました。
安野先生が怪訝な顔付きをされた理由の一つとして、「民田地区へも分けてあげたことがあり、あそこは土が良いんでしょうなあ。グングン育ちました。ところが、私から貰った人が肥料を上げてしまって、『来年枯れるよ』と私言ったのですが、その通り翌年ぱったりと消えてしまいました。」と言われました。山野草に肥料は厳禁なんですね。
中田地区では、安野先生の他に3軒で日本桜草を栽培されており、「その内の1軒にも白い日本桜草がある。今は1株だけしかなく、まだつぼみで花が咲いてなかったが・・・。おたく持ってきてくれた花とウチの息子が園芸店から買ってきた花(安野邸画像)と、同じじゃないか?」と言われました。でも、微妙に花ビラの形が違います。
花びらの違いは日本桜草の変異の一つかもしれませんが、酒田市と鶴岡市=庄内で今まで見てきた花ビラ(さくら邸画像)に、安野先生の息子さんが購入してきた白い日本桜草と同じ花びらを見たことはありません。
安野先生もおっしゃってましたが、日本桜草は普通の植物と違って、その辺に植えて勝手に育つ植物ではありません。春先はサンサンと降り注ぐ太陽が必要ですが、花が終われば日陰が必要です。意外と気難しいから自生地が消滅したわけですが、安野先生のようにン十年日本桜草を栽培し続けている人がいるます。園芸店で日本桜草を購入しても、普通の植物感覚で栽培するから直ぐに消滅させてしまうので、日本桜草が普及浸透していかないのだと思います。
土門尚三さんが『過去に一度だけ咲いているのを見た』という山谷地区や、山形県レッドデータブックや『山形県の植物誌』に自生地として記されている谷定地区を見て聞いて回っても、誰1人日本桜草を知っている人が居なかったことを安野先生に伝えた所、「そうかもしれませんねえ」とおっしゃいました。安野悌次先生は90歳と5ケ月。私が尋ねた方々が60-80歳として、30-10年も歳月が違うのですから・・・。
『地元の方々が知らないのは無理からぬこと』と言う一方で、山形県レッドデータブックや『山形県の植物誌』に中田地区が掲載されていない事に、再び怪訝な顔付きをされました。「以前はこの辺りの日本桜草を‘中田サクラ’と言っており、何の本で読んだのか忘れてしまいましたが、‘中田サクラ’と紹介されていたんですよ」とのことでした。
そして「町の花を決める時にも、私は日本桜草を薦めたのですが、誰も知らないものですから、サルビアになってしまいました。あれは安いし簡単に育つし、楽でいいですからね。」と自傷気味に笑われていました。しかし、それは櫛引町と無関係な私でさえ『櫛引町の花は日本桜草にすべきだ』と思い、出会った役場や町議の方に説いていたほどです。忘却とは残酷なものですね。
櫛引町と庄内地方で忘却された花、日本桜草。それをこうしてみなさんに紹介できたことを、私は幸せに思います。
今年はBlogを始めたこともあり、いつもより精力的に動きました。そして安野悌次先生と出会ったことで、自生していた事も判り、とても有意義なGWでした。それをリアルタイムでみなさんにお伝え出来たことを嬉しく思ってます。
間もなく花も終わり、今期の調査は終わります。調査もBlogも止める分けではありませんが、気持ちの区切りとして言わせてください。ご笑覧ありがとうございました。これからも宜しくお願いします。