2011年01月24日

vol.5 田村景福.4

桜草の栽培の歴史には、栽培者の居住地名が登場するが、
江戸や明治の時代と現代では地名や住所は違っているので調べる気にはなれずにいたが、
田村景福氏(当時の愛好家)の住所は本郷駒込富士前。
富士山に由来していそうな『富士前』という地名なら現在に残っていそうだし
夏目漱石の住所は本郷区駒込千駄木町57番地=現在の文京区向丘2-20-7と判るので、
田村景福氏の住所を地図で調べてみることにした。

本郷駒込に駒込富士神社が在り、その前が本郷駒込富士前町でした。
夏目漱石がイギリスから帰国後の明治36年(1903年)3月から暮らした家と駒込富士神社とは
直線距離で1.2-1.3kmしか離れていなかった。

伊藤重兵衛(明治時代の桜草復興の功労者の一人)の住所は
東京府巣鴨町上駒込染井835番地 常春園
と『櫻草名鑑』に載っていますが、835番地までは調べられませんでした。
染井稲荷神社の近所としか判りませんでした。
昭和15年11月1日発行『農業世界十一月号付録 桜草の作り方』
『上原梓・佐々木尚友 共著 栽培秘訣 桜草の作り方』(博文館)19ページに
「染井墓地脇に住み、大地主でありまして、云々。」と書かれていますので
現在の染井霊園脇から染井稲荷神社の辺りのようです。
駒込富士神社から染井稲荷神社まで直線距離で僅か1.2-1.3km。

浪華さくらそう会会長の山原氏のBlog
2009年07月18日『桜草栽培史39 幕末から明治にかけてー3 』 を見ますと、
伊藤重兵衛は享保2年1717年「花壇地錦抄」を編んだ伊藤伊兵衛の流れをくむ家柄だそうです。

他に駒込伝中に伊藤太郎吉(当時の愛好家)・荒井左衛門(当時の愛好家)が居たので調べてみた。
駒込伝中とは、現在の駒込駅前本郷通り沿い道筋、駒込1丁目界隈だった。
駒込地域まちづくり協議会『駒込の歴史
さすがは江戸。郷土史研究者は多かった。(^^)

荒井左衛門は紅女王や大和神風を発表した人物であり
田村景福は、加藤亮太郎著『日本桜草』日本桜草一覧の中で
「大和神風:西母王の実生か」と談話を寄せている。
こうして地図で見てみると、1kmも離れていない。
ご近所さんだったことがよく判るし、
田村景福が常春園へ行く際には、立ち寄ったであろうと推察もできる。
(荒井左衛門の居住地は、加藤著『日本桜草』では駒込伝中。『農業世界十一月号付録』では染井。)


時代劇を観ますと、江戸の町は坂道が多かったそうで、
平面な地図の距離だけでは、時間的な距離感が判りません。
かといって私では時間を表記した資料が思い当たりませんので
鬼平犯科帳と江戸名所図会を参考にしてみては如何でしょう。
・清水御門前の役宅
・平蔵の従兄三沢仙右衛門宅とされる江戸橋公園辺り
・鬼平犯科帳「むかしの男」に登場する巣鴨庚申塚
・長谷川平蔵の目白台の私邸(文京区目白台3丁目 鉄砲坂、聖マリア大聖堂向い辺り)を
緑の四角でマークしてみました。
平成17年9月17日 第5回鬼平そぞろ歩き 「鬼火」コース
時代小説と古地図トップ > 鬼平半科帳を歩く! >牛込小石川
1里=36町≒3.927km
1町=60間=360尺≒109.09m
1間= 6尺≒1.818m



此処まで調べたら、他の桜草栽培者の住所も調べない分けにはいかないでしょう。
明治大正時代の有名な桜草栽培者を調べてみました。

本郷弓町榊原子爵(当時の愛好家)
桜草だけではなく福寿草も多数秘蔵。後年神宮橋(現在の原宿、明治神宮前)に転居されるも
中風のため三年間移植など手入れができず、優良種は枯死。
本郷弓町には1丁目と2丁目がありました。

明治時代の桜草復興の功労者の一人とされる溝口正直伯爵は本郷。
本郷だけの住所は良く判らず、本郷給水所も本郷のようですが、
現在の東京大学、その前を本郷と呼ぶようです。
榊原子爵と溝口正直伯爵も、1kmと離れていない、ご近所さんだったようですね。
(本郷水道=本郷給水所辺りにも誰ぞ熱心な愛好家が居たと思うが、誰の住所だったか失念。(笑))

大鐘あぐり
加藤著『日本桜草』:浅草今戸に居住され、盛んに品種収集をされましたが、大正12年の大震災に会われ、多くの品種を失われました。その後、小石川林町に移られ、再興を図られた結果、その数に於ては、当時最も多いと云われました。
『農業世界十一月号付録』20ページ:嘗つて浅草今戸におられ、大いに桜草を愛培された方でありますが、大震災のために沢山の種類を失わてしまいました。然る後小石川区林町に移転されてからは再興に熱中され鉢数、種類に於てでは現在随一と称されるに至った程であったが、惜しくも一昨年物故されてしまいました。

明治34年2月発行「日本園芸会雑誌105号」
〈重ナル培養家〉
安部子爵:牛込南町=現在の新宿南町。
柴山政愛(明治時代の桜草復興の功労者の一人):東大久保=現在の新宿6-7丁目。
明石正春:牛込弁天町 
相澤金治郎:関口台町  
〈花戸ニテハ〉
横山五郎:下谷入谷=恐れ入谷の鬼子母神=真源寺 朝顔市で有名。
(入谷練塀町にも誰ぞ熱心な愛好家が居たと思うが、誰の住所だったか失念。(笑))

『農業世界十一月号付録』14-15ページ
東京下谷辺りで桜草愛玩家多く、云々。文化元(1804)年を期に発会(さくら談:これが下谷連の始まりのようです。)。(中略)、(文政2年(1819年)頃)下谷辺りには桜草を栽培していました人は百余人を算しまして、下谷連と称しました。
一方、山の手には文化2年(1805年)より下谷連の掟に習って集会を始めた築土連という会が出来まして、築土下で会合を行いました。

『農業世界十一月号付録』16ページ
文化9年(1812年)武島町(今(昭和15年当時)の小石川区内)の西川與右衛門の創始に係る日向連と称するグループがありましたが、云々。

目白台などを作出した戸田康保子爵は東京落合の目白。
三田自慢と三田の光などを作出された伊集院兼知氏は港区三田かしら。
御田八幡神社と、飛び地であった目黒区三田に三田春日神社が在ったので、マークしてみました。
江戸時代の桜草愛好家の組織は、大きくは下記の3ツのようです。
下谷連100余名 創始者 辻武助 三宅斧次郎他十余名、小笠原孫八郎。
山の手には築土連 築土下(牛込区内(昭和15年当時))創始者齋藤忠三朗。
山の手には日向連 武島町(小石川区内(昭和15年当時))の西川與右衛門。
下谷連いわく、(築土連と日向連は)二流の会。
この地域を地図に示して見てみると、狭い地域で活躍されていることが判ります。
ご近所ゆえに切磋琢磨され、多彩な花を作ってきたのでしょう。
しかし、他を蔑む狭量さもあったようだと加藤著『日本桜草』に書かれており、
明治大正という時代になっても、残っていたのかもしれません。
そう考えて伊集院兼知氏の居住地を見ると、随分と離れた所に在り、
下谷連には相手にもされなかったかもしれませんね。
伊集院兼知氏が作出した『三田自慢』『三田の光』には
孤軍奮闘振りを文京区方面に誇たい気持ちが込められていたのでしょうね。
桜草栽培者たちの住所を地図に示す作業をやってみて、
伊集院兼知氏が品種名に託したの真の想いを理解できた気がします。



連を作り掟を作り狭い地域でしのぎ合い、震災や戦争を経た東京の桜草。
明治大正時代、優れた品種が多く作出された一方で、
ゆえに作出者が亡くなると、栽培者同士の関係が閉鎖的だったこともあり、優良種が多く失われたようです。

多くの愛好家が入り乱れしながら
鳥居恒夫氏が世話人代表を務めるさくらそう会が、昭和28年(1952年)に創立されました。
(浪華さくらそう会の創立はもっと早く、昭和11年(1936年)です。)
世話人制度を不思議に思っていたのですが、連や派閥が邪魔をして、東京はまとまりがなかったんですね。
誰かが会長になってしまうと、まとまりが無くなってしまうので、
各地域(派閥や連?)から代表者を選出して、世話人制度とすることで、結成できたのでしょうね。

一方浪華さくらそう会の会員は
鈴鹿冬三氏が宮司を務めた高鴨神社は大阪、京都から、かなり広く集まっていたんですね。
東京で作出された品種を入手することは、今と比べたら面倒で、貴重だったことでしょう。
貴重ゆえ品種の消滅を防ぐ意味でも、仲間に配布しながら受け継がれ、栽培してきたと思います。

「先輩から受け継いだ由緒正しい苗」という言い伝えという事実は存在するものの
真実は不明と言わざるをえいない前代未聞(短柱花)を所有する鳥居恒夫氏たち。
鳥居恒夫氏が『最高の資料』『最もたよりとする基本リスト』と公言する『櫻草銘鑑』の作者
伊藤重兵衛より大正時代に購入した多くの品種を所有する高鴨神社の前代未聞(長柱花)。
どちらが本当の前代未聞なんでしょうね。

  


Posted by さくら at 19:00Comments(2)日本桜草について